日ソ共同宣言の裏側

by 西 鋭夫 May 5th, 2025

単独講和

ソ連に捕らえられていた日本人を解放してほしいと嘆願しても、ソ連はまったく聞く耳を持ちませんでした。さらに当時の吉田茂首相は西側諸国、とりわけアメリカとの関係を重視しており、米国との平和条約締結を優先しました。1951年のサンフランシスコ平和条約です。

ソ連との交渉は後回しにされました。その結果、シベリアに抑留された人々は長い間見過ごされ、置き去りにされました。アメリカはソ連と冷戦の真っ只中に突入していたので、「ソ連なんか入れられるわけがない」と考えていたのです。「吉田、おまえ分かっているよな」「はい、分かっております」と、日米間ではそんなやり取りがあったのだと思われます。

 

転機

その一方で、ソ連は「俺たちは戦争を共に戦った連合国の一員である。日本と平和条約を結ぶのであれば、北方領土を返す用意もある」と伝えてきました。しかし、それでも吉田は目もくれもせずに、アメリカについて行きました。吉田にとっては北方領土よりも、アメリカとの関係が重要だったのでしょう。そして何よりも、自分が総理大臣であり続ける道を常に意識していたのかもしれません。アメリカにベッタリくっついていれば、政権を長く維持できるし、色々な “おこぼれ” も得られると考えていたのでしょう。

しかしそんな吉田も体力的に限界がきて、1956年には鳩山一郎に政権を譲ることになります。鳩山は最初からソ連との関係改善を視野に入れていて、個人的にもソ連側との対話を重ねました。「もし抑留者を帰してくだされば、日本としてもソ連のために尽力いたします」と。

これが転機でした。吉田は何もしていません。むしろソ連を敵視していました。言葉は悪いですが、完全に「アメリカの茶坊主」でした。それが鳩山の登場によって、雰囲気がガラッと変わったのです。

 

鳩山一郎

鳩山一郎という人物はアメリカに対して距離を取る、いわゆる反米的な指導者と見られがちですが、彼は反米的というよりもマッカーサーによって排除された有能な政治家のうちの一人でした。

鳩山にも非がなかったわけではありません。たとえば彼が文部大臣だった時、京都大学の教授たちが軍の方針に反するようなことを発言していました。その中で滝川事件が起きたのです。京大法学部の滝川教授を文部省の管轄である国立大学ということで解任したのですが、これに抗議して法学部の教授全員が辞表を提出し、日本中で大問題になったわけです。

その後、日本が敗戦し、占領下となった時期、鳩山を総理に推す話が出てきました。ですが、ここにはこんな噂があります。吉田茂がマッカーサーに「マッカーサー元帥殿、鳩山という男は京都大学でこうこう、こういうことをやっておりました」と伝えたと言うのです。それを聞いたマッカーサーが「ならばダメだ」と判断し、鳩山は総理から外された。そうして吉田が総理になった。

つまり吉田はGHQが握っていた「追放」という権力を使って、日本国内の政治家たちを排除してきたのです。吉田茂は今では「偉大な宰相」などと評価されていますけれど、私はほとんど評価していません。もちろん、あの人は頭は悪くなかったと思います。しかし、そのやり方が汚くずるい。私はそう感じています。

 

西鋭夫のフーヴァーレポート
シベリア抑留(2021年9月上旬号)-7

 

 

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。