野坂参三と共産党

by 西 鋭夫 August 26th, 2015

世論を読み間違えた共産党



共産党は容赦なく、天皇に激しい非難を浴びせ続けた。

共産党の攻撃は、エマーソンによると、「逆に日本人の心を傷つけ、天皇擁護の気持を強めさせた」。陸軍省軍事情報局も、秘密報告書の中で同じような分析をしている。

当時行なわれた世論調査によると、言論を抑圧されていた知識階級ですら、天皇制反対は僅かに10パーセントにすぎなかった。マッカーサーも「日本国民の95パーセント以上は明らかに天皇制を存続しようとしている」と認めている。

天皇は、日本国民にとって余りにも神聖な存在だった。天皇を侮辱することは、国民の強い反感をかった。国民には既に別の「悪者」がいた。戦争に敗けた軍国主義者たちだ。

日本共産党はこうした国民の感情を読めなかった。

読み違った。

共産党の読み違いは、マッカーサーの「勝ち」となる。というのも、共産主義者たちは、マッカーサーの「民主主義」で合法化されたが、依然として国民には嫌われた。マッカーサーの思う壷であった。



手品師・野坂参三



野坂参三が、1946年1月12日、中国の延安から釜山(プサン)経由で、帰国した。引揚船「黄金丸」で博多港に上陸した。野坂の父が付けた名は「参弎(さんぞう)」であったが、帰国2日後の1月14日、自ら「参三」と改めた。

野坂参三

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野坂は、慶応義塾を卒業し、1919(大正8)年にイギリスに渡り、イギリス共産党に入党した。そのため、イギリスから追放され、ソ連に入る。1922年、帰国し、慶応の講師となり、日本共産党結成に参加する。1931(昭和6)年、神戸から夫人とともにソ連に逃亡し、モスクワでコミンテルンの中央委員に選出された。

アメリカ陸軍省軍事情報局の秘密報告書『インテリジェンス・レビュー』誌(1946年4月11日)によれば、野坂は、1935年、密かに帰国し、地下工作を43年まで続けたあと、また、中国に戻り、日本軍に対する抵抗戦線に従事した。

日本軍を敵として戦ったので、マッカーサーから帰国を許されたのだろう。

野坂は、博多に上陸した2日後、1月14日、マッカーサー司令部に表敬訪問をしている。卓越した政治的「手品師」である野坂は、共産党は「大衆と国民の党であらねばならない。それには人民から愛される党であり、共産党と聞いて国民が逃出すような印象をあたえてはならない。もしそのような事があればそれは吾々党員の罪だ」と宣言した。

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。