文禄・慶長の役
近くて遠い国、それが日本の隣にある韓国です。日本と韓国とのいざこざはもう何十年と続いております。いったいこの関係は、いつまで続くのでしょうか。日韓の確執について、ある方から「日本ではいつごろから韓国人に対する差別的な意識が生まれたのでしょうか」という質問をいただきました。質問者によれば、メディアがつくり上げた印象もあるかもしれませんが、日本側にも尋常ではない感情があるのではないか、とのことでした。
これは非常に難しい話で、正直に言えば「言いにくい」問題だと思います。皆さん、豊臣秀吉は日本を統一したあと、「明国を征服する」と宣言して、朝鮮半島に上陸します。これは1600年よりも前の出来事です。そして日本軍と朝鮮軍が数年にわたって激しい戦闘を繰り広げました。
ところが、その間に起きたのは戦闘だけではありませんでした。人身売買も行われたのです。朝鮮で捕虜となった人々を日本に連れてきて、ポルトガル人やスペイン人に奴隷として売り渡すというようなことが実際にあったのです。逆に、日本人が捕虜になって、向こうで売られるというケースもありました。これはほとんど語られてきませんが、歴史の事実として、私たちの記憶の底にしっかりと残っています。
併合後の朝鮮半島
その背景もあり、日露戦争後に朝鮮での影響力を拡大した帝国日本は1910年、朝鮮半島を正式に植民地としました。前年の1909年には、伊藤博文が満州のハルピン駅で暗殺されました。あれはいわゆる朝鮮独立運動とされておりますが、その背後関係は今でもはっきりしておりません。しかし犯人は捕まって処刑されております。
その時から1945年の敗戦まで、約35年間にわたり、朝鮮半島は日本の植民地だったのです。ただし、ここで強調しておきたいのは、日本の植民地政策というものが、欧米列強とはまったく違っていたということです。搾取という点では、あまりに差があります。
これを聞いた韓国や北朝鮮の人は怒るかもしれませんが、皆さん、これは事実です。欧米の植民地支配は、残酷極まりないものでした。一方の日本は朝鮮半島を「大切な地域」として位置づけていました。ですから、莫大な資金を投じて、さまざまな設備投資も行いました。教育制度の整備もそうです。そして朝鮮人も第二次世界大戦では、日本軍の一員として共に戦っていたのです。
裏切りと失望
ところが、日本が敗戦すると状況は一変します。関係がこじれていくのです。1945年、日本はアメリカの戦艦ミズーリ号の上で無条件降伏を受け入れます。「負けました」とサインするわけです。その数週間後、朝鮮半島の代表は「戦勝国」ではなく「敗戦側」として、同様の手続きを行いました。つまり、日本とその植民地であった朝鮮も、共に敗戦国だったということです。
ところが、ここで奇妙な出来事が起こります。これは私の兄から聞いた話ですが、当時日本にいた朝鮮人たち(当時は朝鮮人という呼び名が一般的であった)が、「自分たちは戦勝国民だ」と言い出したのです。兄は非常に賢い人物でしたが、彼が驚いたのはそうした朝鮮人たちが、日本の駅前などの一等地に縄を張り、「ここは俺たちの土地だ」と言い始めたことです。戦火で書類や登記簿、戸籍などは焼けてしまっており、反論できる者は少なかったようです。しかも多くの日本人が戦死していたうえに、敗戦によって意気消沈していた時期でした。
実際にその光景を目にした人たちは、「あいつら、俺たちを裏切るのか?あれほど一緒に戦ったのに、負けたらこの態度か」と、心底、裏切られたと感じたのです。そしてそれが日本人の感性や美意識を逆なでする結果となったのです。その時の怒りは簡単には消えません。根強く残っていると言って良いでしょう。
西鋭夫のフーヴァーレポート
日本の底力(2019年9月下旬号)-1
この記事の著者

西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。