秘密裏の憲法

by 西 鋭夫 December 23rd, 2015

近衛文麿


「私は東久内閣に憲法改正の草案をつくるように命じた。ポツダム宣言が要求している政府、社会ができるように、と命令した」とマッカーサーは言っている。

東久内閣の無任所大臣であった近衛文麿は、1945(昭和20)年10月4日、マッカーサーとジョージ・アチソン政治顧問に面会し、敗戦日本の将来についての助言を求めた。この会談は、午後5時から6時30分まで続く。

近衛は、マッカーサーが「憲法は改正すべきである。改正には自由化をふんだんに取り入れるべきである」と言ったと確信した。

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近衛文麿は、京都帝大卒で木戸幸一の親友。第一次近衛内閣の時、日中戦争が起こり、彼の発言が戦争を悪化させた。第三次内閣の折、日米関係の打開に失敗し、総辞職し、東條英機に引き継がれる。

東條を首相に推挙したのが木戸幸一。


秘密会談


3日後の10月7日、近衛はアチソンと秘密会談をもった。

アチソンは、アメリカが最低限必要と考えていること、⑴超憲法的なものの除去、⑵政府に対する軍部の影響の抹殺、⑶人権の保障、を強調した。

10月5日、東久内閣は無残にも崩壊する。マッカーサーが10月4日に発令した人権・市民権全開の「政治的爆弾」の爆風に堪えられなかったのだ。

9日、幣原喜重郎内閣が成立した。近衛は内大臣府御用掛になった。極めて強力な地位である。その権限は憲法改定などを含んでいなかったが、近衛はそれに着手した。


影の委員会


一方、10月11日、マッカーサーは、幣原首相に、1889(明治22)年の明治憲法を改正せよと命じた。

幣原は、東京帝大卒。外相を永く務め、親米英でもあった。サンフランシスコ平和条約に関しても奔走した。日本の卓越した外交官の一人、1951(昭和26)年死去。

同10月11日、近衛は天皇から憲法草案に着手するよう正式に命令を受けた。

同じ日に、憲法改正の公式委員会が2つできあがった。

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。