退陣と抵抗

by 西 鋭夫 August 20th, 2015

『朝日新聞』『毎日新聞』の落城

マッカーサーの「マグナ・カルタ10月4日指令」は、日本の報道機関に影響を与えはじめた。

10月21日、『朝日新聞』の編集責任者が総退陣した。『毎日新聞』でも11月26日、従業員の要求で重役陣が退陣した。


正力松太郎の抵抗


『讀賣報知』では、社長の正力松太郎(しょうりきまつたろう)が退陣を拒否したため、激しい労使紛争が続き、GHQもこの紛争には深く関わった。この労使紛争は、マッカーサーが、1945年12月4日、正力を戦争犯罪人に指名し、逮捕したことで決着する。





正力は、東京帝大法学部卒。警視庁官房主事等を務め、読売巨人軍の前身を創設。占領後、自民党の衆議院議員として連続5回の当選。戦後日本の指折りの大物実業家であった。

アチソンは、1946年1月7日、バーンズ国務長官に「讀賣は、2カ月間で、超軍国主義の積極的な戦争推進派から、日本の大新聞の中で、最も自由主義的な新聞に変わりました」と報告した。また、1945年12月9日付の手紙でも、「新しい雑誌では〝新生〟が最も楽しみです」「〝新生〟は木戸幸一侯爵の戦争責任をはじめ〝軍国主義と歩調を合わせて踊った政府高官たち〟といった論文を掲載しております」と述べている。


自由の戦士たち


10月4日の「権利の大憲章」は、日本政府に全ての政治犯の即時釈放を命じている。日本の「政治犯」とは、日本帝国の政策に反対した人たちである。彼等は共産主義者と社会主義者だった。それが今や、勇敢な「自由の戦士」と見做され、英雄視された。

「敗けた日本国民」が賊軍で、「官軍」は勝った共産主義者たちだ、というような印象を国民に与えた。

日本共産党の指導者、徳田球一(とくだきゅういち)は、刑務所から釈放される直前、同盟通信とのインタビューに応じ、「1929(昭和4)年に日本全国で約1万人の共産党員が逮捕されたが、そのうち200人が警察の拷問で死亡、別の200人も刑務所内の栄養失調や虐待で死んだ」「2000人の政治犯がまだ刑務所に拘留されている」と話した。

徳田球一は、日本大学夜間部に学び、法律学科を卒業し、弁護士になる。1922(大正11)年、モスクワの極東民族大会に出席し、帰国後、共産党を創立する。その翌年、検挙され、10カ月で出獄。

1927年、モスクワのコミンテルンで活躍するが、1928年の「3・15事件」でまた検挙され、マッカーサーに釈放されるまで、18年間もの獄中生活を送った。1950年6月、マッカーサーの「レッドパージ」で迫害され、地下に潜入し、北京で1953(昭和28)年10月14日に客死(かくし)した。

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。