国民食としての鯨肉
鯨に対する認識は世代間で異なります。若い世代にとっては、鯨を食べたこともない方も多くおります。逆に、私の世代にとっての鯨は、いわば国民食でした。給食のメニューとして出ておりましたし、鯨と聞いたらもう食べたくないというほど食べました。
疎開先では川魚もたくさん食べました。アユとかハヤとかも、今は高級品のように1匹500円とか1000円ぐらいするところもありますが、昔は食べ放題でした。川魚は手のひらにちょうど乗るくらいで、サイズも手頃でしたが、鯨肉はとっても大きな塊のような状態で売っていました。
母がそれをサイコロぐらいの大きさに切って、ショウガと砂糖と醤油で、長い間グツグツと煮ていました。ショウガで鯨の強い臭いを取っていました。1930年代から50年代に生まれ育った人は同じような経験をしていると思います。
GHQによる許可
さて、日本人にとっての鯨は、GHQ統治下においてどのように捉えられたのでしょうか。
端的に言えば、マッカーサー元帥は、捕鯨であろうが、なんだろうが漁業の具体的な内容についてはほとんど興味もなかった。ただし、日本人が飢えると暴動を起こすので、可能な限りの許可を出しました。しかしそれは「マッカーサーライン」という海洋に引いた一つの線の内側での話です。
例外は捕鯨でした。戦後になって初めて日本人は南極海域へと鯨を獲りにいくことになります。高タンパク源であった鯨は、戦後の日本にとって必要不可欠な食材でした。
IWC加盟
世界の主要な捕鯨国の組織に国際捕鯨委員会(International Whaling Commission:IWC)があります。日本の加入は1951年でした。IWCの第一義的な目的は、資源としての鯨の保存を考えることでした。後年、乱獲による鯨族の大幅な減少に伴って、1982年には商業捕鯨の一時禁止などを決めました。
ところで日本がIWCに加盟した1951年は、日本は未だに占領統治下にありました。ではなぜ占領統治下にありながら、IWCに加盟したのか。占領時代に自ら進んで入るところではないでしょう。
日本はIWCに強制的に加盟させられたのです。なぜか。日本列島付近の海域や太平洋での日本の捕鯨を制限したかったからでしょう。戦後においても、日本の漁業を牛耳る、これが大きな目的であったように思います。IWCと日本の関係はここで詳しく論じませんが、一点だけ指摘すると、日本は毎年、非常に大きな大金を払いながら、捕鯨を禁じられている状況です。IWCによる日本いじめの構図がここにあると思います。
西鋭夫のフーヴァーレポート
2016年5月上旬号「捕鯨外交」-2
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。