急襲
1889年2月11日。
「森文部大臣には、今朝参内せられんと永田町の官邸を立ち出でらるる際、1人の書生体の者......来たりて、短刀を以て右の腿部を刺し傷を負わしめ、大臣には直ちに引き返されたり」
「右の続報 右の曲者は◯学校の生徒らしき人体にて、年頃は20歳ばかりなり。身には小倉の袴を着けたり。その凶器は尺二、三寸の新しき出刃庖丁なりと云う。最初(午前9時30分頃とか)玄関に来たりて大臣に面謁を乞い、受附の書生が応接するや否や、奥の間に飛び込みて、大臣の腹部をしたたか刺したり。折節居合わせたる者どもこの騒動を聞き、駈け来たりて散々に切り殺しぬ(首を半分過ぎ落としあり。その外数カ所の疵ありしと云う)。かくて死骸は直ぐさま麹町警察署に引き渡し(同署にて死骸の写真を撮りたり)、それより区役所にて引き取りて、即日青山埋葬地に埋めたり。また大臣の傷はすこぶる重体にて、疵口より大小腸三寸余も出でたりとか云う」
凶漢の正体
2月12日。
凶漢は「内務省土木局の雇い勤たる西野文次郎(25)と云う者なり......。......隠し持ちたる一尺余の出刃庖丁を閃かし、右の脇腹を深く刺し参らせたり。大臣は刺されながら引き組みて......上になり下になり転び行きて、ついに2人とも打ち倒れ、捻じ合いたまえるを、この騒ぎを聞きたる文部省属官某は直に馳せ附け、大臣が居間なる仕込杖を引き抜きて、ただ一刀に曲者の首を半ば過ぎ打ち落とし、返す刀に急所を指し貫きたりければ、これにて曲者は息絶えたり。......その死骸の懐中に二尋あまりなる遺書あり」(「文次郎」は、「文太郎」の誤り)
内務省(1900年頃)
西野は、1865年生まれで、山口県の士族であった。文筆もたち、「書簡の文字のごときは見事なり」と、この新聞記事にも記してある。
西野を斬った男は座田秀重で、森の秘書官であった。座田は、裁判にかけられるが、正当防衛で無罪。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。