共産党は諸刃の剣
マッカーサーが政治犯を即時釈放することで、日本国民にアメリカの民主的意図を明確にさせることができると考えたのは当然である。
陸軍省軍事情報局も「日本共産党は日本の政治思想に健全な刺激を与える」と信じていた。
マッカーサーの「祝福」を受け、夢心地の共産主義者たちは、猛烈な宣伝活動を開始した。しかし、共産主義者たちを釈放して1カ月もしないうちに、GHQは動揺し始めた。
アチソンは、1945年10月5日にトルーマン大統領に宛てた手紙の中で、「不幸にして、最も積極的で声の大きいのは共産党の連中であります」と嘆いた。
さらに、「共産党の指導者たちの凄まじい気力は一目瞭然であります。通常の人間の肉体と精神を完全に破壊したであろう18年間の独房監禁にも耐え、釈放が決まると、刑務所の外に出る前に演説を始めました。共産党はソ連との結びつきを否定しておりますが、今後、問題を引き起こす可能性が大いにあります。もし、日本にソ連の占領軍が駐留するようなことにでもなれば、共産党を勢いづかせ、ソ連共産党との関係が強化することになるでしょう」と警告している。
敗戦国民の心を掴んだ共産党
自信と野望に燃えている共産党は、1945年12月8日、東京・神田の共立講堂で、「戦争犯罪人追及人民大会」を開き、「食糧を奪いとった天皇の戦争責任を追及」することを決議した。
マッカーサーは12月19日、「釈放された政治犯の被選挙権の回復」指令を発した。共産党員も国会議員になれる可能性がマッカーサーに保証された。
「マッカーサー元帥様、万歳!」と叫んだ共産党員たちの気持ちも理解できる。
ビショップ(国務省から東京GHQへ派遣された外交官)は、1945年12月31日付の国務省への報告書の中で、「最も精力的な活動は共産主義者によるものである。共産主義者たちは、ここ数カ月のうちに次々と刑務所から出獄し、党員も100倍以上に増えている。今や共産党は1回の会合に、5000人の熱狂的な党員、支持者、聴衆を集めることができるようになった」。
共産党の機関紙『赤旗』は、1935(昭和10)年以来発刊停止となっていたが、出獄を前にして、徳田や志賀らが獄中で再刊第1号を準備し、1945年10月20日に印刷を再開した。
2カ月後には、『赤旗』の発行部数は9万部となり、翌年2月には25万部にまで増えた。だが共産党員数は、僅か6800人にすぎなかった。
*註 『赤旗』第1号は以下で参照できる
http://www.ndl.go.jp/modern/img_r/100/100-001r.html
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。