マッカーサーの賭け
その3日後、9月15日、マッカーサーは「天才的」と言われた作戦能力を発揮し、7万人の軍力で朝鮮半島の仁川港に輝くべき上陸を敢行した。仁川港は既に北朝鮮軍に占領されていたソウルから西方30キロにある小さな港である。
この作戦には、アメリカ国防省の参謀たちは大反対であった。仁川港の干満の差が5メートルもあり、上陸できないと思われたのだ。北朝鮮も、上陸不可能と思っており、守備隊は配置されていなかった。
仁川上陸作戦を観戦するマッカーサー
この大きな賭けをしたマッカーサーは、賭けに勝ち、北朝鮮の背後から猛攻撃を開始した。
10日後、ソウルを奪回し、北朝鮮軍を追い、アメリカ軍と韓国軍は10月1日、38度線を越え、北進する。10月8日、アメリカ(国連軍)は、北朝鮮軍捕虜は総数5万人と発表した。
ウェーキ島の会談
アメリカ軍は、破竹の北進を続け、クリスマスまでには戦争はアメリカの勝利で終わり、アメリカ兵は全員帰国するであろうと思われていた。
トルーマン大統領は、マッカーサーの軍事的才能に感銘を受けたが、アジアにいる共産主義者を一人残らず殱滅させるべきだと主張する、マッカーサーの宣教師的執念が独り歩きをするのではないかと心配でならなかった。意見調整のため、10月15日(アメリカ時間)、両者は、かつてアジア・太平洋戦争の激戦地であった小さなウェーキ島で会談した。
会談後、トルーマンは、記者たちに「完全な意見の一致を見た」と語った。
この会談でマッカーサーは、「中国共産軍は参戦してこないでしょう」とトルーマンに進言した。
破竹の行軍
10月20日、アメリカ軍は北朝鮮の首都平壌を占領した。翌日、アメリカ軍のパラシュート部隊は、北朝鮮の奥深く着陸し、南と北から北朝鮮を挟み撃ちにして、全滅させる計画を実行した。
10月24日、トルーマンはマッカーサーに手紙を書き、
「あなたの指揮の下、あなたの軍が勝ちえた勝利は私たちがウェーキ島で会って以来、最も素晴らしいものである。ここで、もう1度、私は心からの祝福を送りたい。あなたの指揮下による韓国での軍事作戦は、世界平和へ最も深い影響を与えるであろう」
とアメリカで最も有名な軍人を称えた。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。