ヒトラー生存説

by 西 鋭夫 March 23rd, 2015

日本国内に潜伏したスパイたち

1945年5月31日、アメリカ政府の戦略諜報局(Office of Strategic Services, OSS)局長代理のチャールズ・S・チェストンがトルーマン大統領に報告しているように、「連合軍は東京への空襲で、50万戸の家屋を破壊し、30万人の市民を殺しました。」「市民の間で不穏な騒ぎが起きている兆しはありませんが、士気は低下しております。」

「元首相東條の自宅に投石する者たちもおり、東條は東京から離れております。勝利を信じる者はおらず、和平の噂が東京中を飛びかっており、市民は戦争は冬 までには終わると思っております」という状態だった。

東京、日本中にアメリカのスパイがいたことは明白だ。



ヒトラー生存の噂


1945年5月8日、不滅と思われたナチス・ドイツがソ連とアメリカの連合軍により全滅にされた。ヒトラーは愛人エヴァ・ブラウンと自殺した。


ヒトラーと日本参謀本部を巻き込んだ、信じられないような話がある。



終戦直後、ロイター特派員が、ある日本海軍参謀と会見した。この参謀は身元を隠し、東京郊外の「寂しい場所」で特派員に会った。その会見を、1945年10月19日に、『スターズ・アンド・ストライプス』(アメリカ軍隊の機関紙)が記事として載せた。

要約する。



「ヒトラーと愛人エヴァ・ブラウンをドイツから救出する計画が日本参謀本部の秘密会議(3月3日)で決定された。この海軍参謀は出席していた。ヒトラーは、もしドイツから脱出し東京に着くことができたら、日本を勝利へ導くため、ドイツの最新兵器設計図等を与えると言い、日本参謀本部は、日本がアメリカとヨーロッパを征服したら、ヨーロッパがヒトラーのものになるよう支援すると約束した。」

「ヒトラーはドイツには信用できる者はいないので、日本へ逃亡するために、日本の潜水艦を回してほしいと要請し、3月5日の早朝、日本の潜水艦が90日分の食糧を積み、横須賀からハンブルクに向かった。ヒトラーと愛人のために、潜水艦には豪華な敷物を敷いた1室が作られていた。14日後、インド洋沖で補給船から燃料を受け、航海を続けた。4月17日に、ヒトラーから早く来てくれと緊急の要請があり、我々はなにか大事件があったに違いないと理解した。それから、間もなく、ナチ・ドイツは壊滅した」



この海軍参謀は、その潜水艦に乗っていたのではないか。『朝日新聞』(1945年10月20日)に翻訳記事が掲載されている。信じられないような話だが、実行は可能であった。

既に、この2年前、日本海軍の全長109メートル伊号第八潜水艦は、極秘使命を受け、1943(昭和18)年6月1日に広島の呉軍港を出発し、アフリカの喜望峰を周り、大西洋を北へ上り、ナチス占領下フランスのブレストに入港した。ナチスと最新の兵器技術を交換し、伊8号はレーダーやダイムラー・ベンツの高速エンジンを積み込み、12月21日に無事、呉港へ戻ってきた。片道90日の航海であった。



伊号第八潜水艦

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ヒトラーの救出の話をした海軍参謀は、「90日分の食糧を積み」とか、「最新兵器の設計」云々と言っているので、ドイツ・日本間5万4000キロを往復した「伊八号」のことを十分知っている。ヒトラーのドイツ脱出計画は本当の話かもしれない。

日本帝国政府は国家滅亡を目前にして、中立国に駐在していた日本大使たちに、戦争を速やかに終わらせるように「動け」と指示した。この時期でさえ、日本政府は降伏でなく「休戦」を望んでいた。

この記事の著者

西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

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西 鋭夫

西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。