戦艦大和
マッカーサーが沖縄へ攻撃を掛けるのは時間の問題であった。
沖縄の学童を鹿児島へ疎開させるため、1944年8月18日の夜、「対馬丸」は1661名を乗せ、那覇港を出た。4日後、22日の夜10時12分、アメリカの潜水艦の魚雷4発を撃ちこまれ、10分後に、1484名の命と共に、沈没した。
太平洋に戦線を拡散した日本軍に物資を輸送できるかどうかは勝敗を決定する要因であった。そのことを10分理解していたアメリカ海軍は、日本の輸送船2394隻を撃沈した。この数は日本の民間船の「85パーセント」であり、日本の輸送能力全滅の状態を示す。日本海軍はアメリカの無数の輸送船の僅か98隻しか沈めていない(尾崎竹一「目頭が熱くなる『戦没船員の碑』」『産経新聞』1998年8月13日)。
1945年4月1日、アメリカ軍は緑燦々とした、美しい沖縄が赤茶色になるほど、猛爆撃をし、海兵隊を上陸させた。アメリカは、50万人の兵を上陸させる。
沖縄を死守しようと、大本営は日本帝国の最後の切り札、戦艦「大和」を出動させる。
「大和」は、10年の歳月と巨額1億4000万円の工費を費やし、広島県呉海軍港で1941(昭和16)年12月16日、真珠湾攻撃の直後に完成した。ちなみに、同年の軍事費は国家財政の75.7パーセント。
「大和」は冷暖房完備、エレベーター付、世界最大の6万9100トン。全長263メートルの不沈艦であり、日本海軍の誇りでもあった。「大和」があるかぎり日本軍に敗北は訪れないと誰もが信じていた。「大和」は大日本帝国の象徴であり、日本の精神的支柱だった。
その「大和」は、1945年4月6日、午後3時20分、乗員2774名とともに、燃料4000トンを積み込み、援護する零戦は1機もなく、僅か8隻の駆逐艦と1隻の軽巡を引き連れ、15万馬力のタービンエンジンを全開し、全速力27ノットで、山口県徳山沖から沖縄へ向かう。この4000トンの重油は日本海軍が所持した最後の燃料だった。
大和撃沈
日本帝国の運命を背負い、「菊水作戦」と名づけられた「大和水上特攻隊」は死地へ向かう。
翌朝7時30分、沖縄まではまだほど遠い奄美大島沖の海上で、獲物を探していたアメリカ空軍に捕まる。
「大和」はグラマン戦闘機1000機の猛攻撃に曝され、魚雷12発を受ける。当時、魚雷1発で沈んだ戦艦は数多くあった。日本の神々に守られていたかのように「大和」は沈まず、その死闘は7時間にも及んだ。
しかし、午後2時23分、「大和」はついに鎮魂の大爆発を起こし、日本海軍の誇りと夢は、2489名の勇敢な水兵と、艦長とともに深い海に消えていった。
援軍の当てもなく、取り残され、食糧、武器、弾薬も乏しい事態にも拘らず、沖縄住民と日本軍は激しく抵抗し、老若男女を問わずバンザイ突撃に加わった。天皇陛下の住む本土を守ろうとしたのだろうか。負け軍と知りつつ、「己の誇りと尊厳」のため、戦いながら死んでいったのだろうか。
この激烈な抵抗にもかかわらず、3カ月後の6月23日、沖縄は陥落した。
沖縄の最前線で、負傷兵の看護にあたっていた勇敢な「ひめゆり部隊」の若い女子49名も、摩文仁村の小さな洞窟で自決した。日本人の屍が戦場に累々と積まれた。その数、20万人とも、25万人とも言う。アメリカ兵、4万9151名、戦死。日本本土の状況は日毎悪化していった。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。