From: 岡崎 匡史
研究室より
二発の原爆で廃土と化した日本帝国は、御前会議を1945年8月14日に開き、「ポツダム宣言」の受諾を決定した。
翌15日正午、昭和天皇(1901〜1989年)の肉声によって「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ...」から始まる「大東亜戦争終戦詔書」、いわゆる「玉音放送」が放送された。昭和天皇は「敗戦」という言葉を使わずに、「萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」と述べられた。
「玉音放送」の海外英語版は、戦後NHKラジオの英会話番組「カムカム英会話」の番組講師として一世を風靡することになる平川唯一(1902〜1993年)によって代読された。
敗戦と責任
ほとんどの日本人にとって昭和天皇の声を聞くことは初めてであり、畏れ多いことであった。なぜなら、当時、天皇の声はラジオにおいて無音で放送されており、天皇の声に対するタブーがあったからだ。
「天皇の肉声」を聞くことによって、アメリカは天皇の神聖が失われると考えていたが、日本を指揮していた「天皇」が「敗戦」を潔く受け入れ、一夜にして日本軍が武装解除されたことは、アメリカ兵にとって理解しがたい出来事であった。
大東亜戦争の多くの指導者たちは、責任をとって自害、あるいは戦犯として逮捕された。8月14日の夜、陸軍大臣の阿南惟幾(1887〜1945年)は、「一死以て大罪を謝し奉る」と遺書を残して壮絶な割腹自殺を遂げた。
神風特別攻撃隊を編成した大西瀧治郎海軍中将(1891〜1945年)は8月16日午前3時に、「特攻隊の英靈に日す、善く戰ひたり深謝す、最後の勝利を信じつつ肉彈として散華せり、然れどもその信念は遂に達成しえざるにいたれり、吾死を以て旧部下の英靈と遺族に謝せむとす」と、遺書を残して自刃した。大西の遺書は新聞に掲載され、多くの日本人に読まれた。
戦陣訓
『戦陣訓』で「恥を知る者は強し。常に鄕黨家門の面目を思ひ、愈愈奮勵して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を殘すこと勿れ」と、訓戒していた東條英機(1884〜1948年)はピストル自殺を計った。
息のあるうちに「大東亜戦争は正義の戦いなり」と言ったが、自殺に失敗して「死にぞこない」と汚名を着せられた。
東條は極東軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受け、1948(昭和23)年12月23日、スガモプリズン(巣鴨拘置所)で死刑が執行された。この日は、当時14歳であった皇太子殿下の誕生日(現在の上皇陛下)であり、マッカーサーは「戦争責任」という一生忘れられないプレゼントを皇太子殿下に贈った。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・浦野起央『日中韓の歴史認識』(南窓社、2002年)
・西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中央公論社、1998年)
・原武史、保坂正康『対論 昭和天皇』(文藝春秋、2004年)
・「阿南陸相自刃す」『朝日新聞』1945(昭和20)年8月16日
・「大西海軍中將自刃」『朝日新聞』1945(昭和20)年8月18日
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。