From: 岡崎 匡史
研究室より
GHQ占領下の日本、国策に迎合した大学や研究機関は戦々恐々としていた。
日本の大学や教育機関や私塾は、GHQの圧力に震え上がっていた。実際、神官を養成する神宮皇學館が廃校の憂き目にあったことを目の当たりにしていたからだ。
戦争に協力した大学は、GHQの批判の矛先をそらすために、自己改革にいそしむ。組織の防衛本能が働いたのだ。
紅陵大学
GHQは、日本軍国主義の手先を養成して侵略に奉仕した大学として拓殖大学に目を光らせていた。植民地開拓の人材を供給していたと思われた拓殖大学は、校名を「紅陵大学」と改名。
拓殖大学の目的は、「異民族に信頼されて共働する有為の青年を教育する」ことであり、「軍の手先であったり、帝国主義の推進力」を意図していなかった。だが、拓殖大学はGHQが「拓殖」という言葉には、「海外雄飛の伝統、質朴豪毅な校風が何か植民地主義的帝国主義的」な意味があると誤解することを恐れたので、校名を自主的に変更した。
頭山満(とうやま みつる・1855〜1944)らによって結成された「玄洋社」の思想に共鳴した柴田徳治郎(しばた とくじろう・1890〜1973)が創設した國士舘大学も、校名を「至徳学園」と改め、教科書の変更や教職員の入れ替えが行われた。
金鶏学院
拓殖大学で東洋思想講座を務めていた陽明学者・安岡正篤(やすおか まさひろ・1898〜1983)が、1926(大正15)年に設立した「金鶏学院」(きんけいがくいん)も廃止された。 安岡正篤は、「終戦詔書」の作成にも関わり「万世ノ為ニ太平ヲ開ク」という文言を加え、戦後は「歴代首相の指南役」と呼ばれた人物。
「金雞学院」は、教育によって人間性・精神を高め、日本改造によって理想国家を作るために設立された。
近衛文麿など政財界から幅広い支持に加えて、「結盟団事件」や「五・一五事件」の精神的基盤と目された私塾である。
「金雞学院」の延長線上に安岡が埼玉県比企郡菅田村(現・嵐山町)に1931(昭和6)年に開校した「日本農士学校」も、GHQから解散を命ぜられた。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・細野徳治「『GHQ教育政策と拓殖(紅陵)大学』に関する調査報告書」『拓殖大学百年史研究』拓殖大学、第7号、2001年
・拓殖大学編『拓殖大学八十年史』(拓殖大学創立八十周年記念事業事務局、1980年)
・ピーター・ドウス、小林英夫編『帝国という幻想』(青木書店、1998年)
・片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社、2007年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。