留学のはじまり
東京オリンピック(10月10日)が始まる前、1964(昭和39)年の初夏、私はアメリカ大陸、カナダの国境に近い西海岸の港町シアトルにあるワシントン大学に留学した。大陸とは大げさだが、当時は適切な表現であった。
1964年は東京オリンピックのおかげで、日本人にも「海外旅行」が自由化された戦後最初の年である。それまで日本は国際交流においては鎖国状態であり、「海の向こうはどうなっているのかなァ」と想像をめぐらすだけであった。
少ない輸入品を「舶来品」と呼び、海外から船で運ばれて来たものを「高級」と崇めていた時期だ。日本人の海外「ブランド志向」の幕開けと言える。
「留学」といっても簡単ではなかった。大きな本屋にも留学に関する本は一冊もない。コンピューター、eメール、ホームページ、携帯電話なぞ発明もされていなかった、いわばエレクトロニクス石器時代に、アメリカの大学情報を探すのはもちろん「手探り」である。
アメリカ文化センターの威厳
私は美しい関西学院大学(兵庫県西宮市)の英文学科に在学しており、住まいは大阪市の住吉大社の近くであった。
米国務省(外務省)がアメリカの素晴らしさを日本に布教するための「アメリカ文化センター」が大阪市内にあり、そこに大学案内書があると聞き、見に行った。
大学案内書は「パンフレット」ではなく「ブレティン」と言う、と怖そうなアメリカ人の女性職員が教えてくれた。
文化センターは広々としており、日本製ではないテーブルや椅子が整然と並べてある。利用者は私を含めて3人ほどしかいない。
ものすごい数のブレティン。大きな辞書ほどの厚さのものまであり、全部英語で書いてある。全ページびっしりと小さな字で印刷してあり、泣きながら「英語、分かりません」と白状したくなるほど圧倒された。
西鋭夫著『日米魂力戦』
第1章「遊学1964年」-1
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。