北朝鮮軍の急襲
1950(昭和25)年6月25日、日曜日の朝四時、90台の北朝鮮戦車部隊が38度線を破り、韓国にゴウゴウと傾れ込んだ。北朝鮮軍は、海からも侵略した。
38度線を守っていた3万の韓国軍は総崩れ。
翌日、北朝鮮軍は韓国の首都ソウルの14キロまで迫った。ソウルは陥落寸前である。ソウル上空でソ連製戦闘機ヤク1機とアメリカ戦闘機マスタング1機が空中戦を行ない、ヤクは撃退された。
「動乱」と呼ばれた悲惨な朝鮮戦争の始まりである。
初動
翌26日、マッカーサーは、吉田首相に『アカハタ』を発行停止処分にせよと命令を出す。
同26日、トルーマン大統領は、武器援助を韓国へ発送せよと命令し、日本の駐留アメリカ空軍から戦闘機10機を韓国軍に与えると言明した。
同日、好景気に沸いていたウォール街の株式市場は、戦争の凶報で大暴落をする。
翌27日、トルーマンは、アメリカ海空兵力の出動を命じた。
「国連安保理事会が侵略者に対して戦闘行為を停止し、38度線に撤退するよう要求したが、侵略者はこれを無視し、攻撃をさらに強化した」という理由である。陸軍の出動は命じられていない。
同日、国防省(ペンタゴン)は、マッカーサー元帥が朝鮮における全ての作戦の責任者であると発表した。
陥落
翌28日、ソウルが陥落した。勢いに乗じた北朝鮮軍は、敗走する韓国軍をさらに追撃する。
アメリカのF80ジェット・エンジン戦闘機が戦線に登場した。
ソ連製のミグ・ジェット・エンジン戦闘機が空中戦に加わる。
ミグの方が強い。
マッカーサー元帥登場
同29日、マッカーサーは、民政局長ホイットニー准将とGHQ参謀第2部(G2)部長ウイロビー少将を連れ、韓国に到着した。
韓国到着後、閲兵を行うマッカーサー(左)
南下していた韓国の難民は、歓呼の声をあげ、マッカーサーを迎えた。彼は、最前線を視察し、作戦会議を開き、同日午後10時13分に東京に戻った。
トルーマン大統領は、同30日、アメリカ陸軍を韓国へ派遣すると発表し、朝鮮半島の全海岸線封鎖も命令した。これで、アメリカの陸海空軍が主力となり、戦いが展開することになった。
マッカーサーは、北朝鮮の基地を攻撃せよと命令を出した。
トルーマンは、「爆撃は朝鮮と満洲との国境を越えてはならない」と言った。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。