羽仁五郎と全教
賀川の教育者組合の一日前に、CIEが「社会史家、作家、左翼」と評した羽仁五郎が全日本教員組合を結成していた。
同組合は民主主義の促進と給料の5倍引き上げを要求した。
羽仁(旧姓・森)は、1921(大正10)年東京帝大独法科を休学してハイデルベルク大学で歴史哲学を学び、1924年に帰国し、東京帝大に在学中、自由学園創立者羽仁もと子の娘、説子と結婚し、羽仁姓となった。
羽仁五郎
1927(昭和2)年、東京帝大史学科を卒業、日本でマルクス主義史学を樹立した第一人者である。日本の軍国化に反対する運動をし、治安維持法違反で二度逮捕された。
戦後初の衆議院選挙が行なわれた1947年で当選(2回)し、紀元節の廃止を唱えた。
また、国会図書館設立に尽力した。彼の『都市の論理』(1967年)は、時の流れに乗り大々的なベストセラーになる。
日教組の影響力
両組合は、互いに相手を「反動」、あるいは「共産主義者」と罵りあった。
しかし、羽仁の率いる左翼の全日本教員組合が全国の教職員の心を捕らえた。この組合が日本教職員組合(日教組)へと発展してゆく。
東大総長南原繁は、マッカーサーの政治顧問(外交局長)シーボルドに、「最も危険で憂慮される教員組合運動は小学校教師たちによるものであり、彼等は物凄い影響力を行使している」と警告した。1947年12月27日のことである。
教員たちの家計の苦しみが深刻になっていったため、山崎匡輔文部次官は、1946年6月25日、ニュージェントとオアに「このままでは群衆運動が起きて大混乱をきたし、教師たちが大量に職場を去ることになりかねない」と警告し、文部省が教職員給与増案を早急に新聞発表したいのだがと許可を求めた。
ニュージェントとオアはこれを承認した。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。