死に体
極東委員会は、1946年2月26日、ワシントンで第1回会合を行なった。
それまでに、マッカーサーは松本草案を拒絶し、ホイットニーにマッカーサー草案を用意させ、それを幣原内閣に押し付けていた。同内閣は、受諾か拒否かではなく(拒否は選択外)、「国家の象徴」としての天皇の解釈をめぐって悶々としていた。
2月26日までには、マッカーサーはまだ機能していない極東委員会を持ち出し、極東委員会は皇室廃止ばかりでなく、天皇自身の死刑さえ考えており、もし日本政府がマッカーサー草案を拒否すれば、自分としてはどうすることもできない、と日本政府を恐喝していた。
2月26日までに、「最も重要な成果」は事実上、完成していたのである。
かくて、マッカーサーは誇らしげにバーンズ国務長官に報告する。
「この件(憲法改正)に関しては、迅速に行動することが最も重要である。日本国民は目下、全く非民主的な憲法下で苦しんでおり、改正が遅れれば、改正を望んでいない者たちを援護するだけである」
「討論サークル」
マッカーサーは俊敏さと強引さをもって圧勝した。
吉田は、マッカーサーがなぜこのように早急に動いたか分からないと言いながら、「どの国の軍人にも共通の、性急さによるもの」と推測している。問題の焦点は、軍人マッカーサーの「性急さ」ではない。
新憲法の完成によって、極東委員会にはもはや重大な政策決定はほとんどなくなった。マッカーサーがのちに極東委員会を「討論サークル」と呼んだのも当然である。
しかし、この討論サークルは執拗に生き続け、1948(昭和23)年11月に新憲法の国民投票を企画した。
アリス・ダニングは、上司の国務省極東・アジア局長マックス・W・ビショップに極秘の覚書を送り、
「憲法はアメリカによって鼓舞、促進された文書であり、日本国民が同文書に対し反対投票することは、数がいかに少なくとも、アメリカに反対する者に、武器を供給することになる」
と警告した。国民投票は見送られた。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。