政治顧問の力添え
アチソン政治顧問は、マッカーサーを支持して、極東委員会を攻撃した。
彼は、1946年6月21日、国務省の占領地域担当次官、ジョン・H・ヒルドリングに手紙を書き、援護を要請する。
「(極東委員会が)日本での状況について認識を欠き、誤解から生じる理解しがたい態度には、我々も非常に悩まされている。......マッカーサー元帥およびGHQの誰も憲法を"押しつけよう"とする考えは毛頭なかった。......草案は日本の文書であり......私は極東委員会のアメリカ代表が、委員会のメンバーたちを再教育するよう願っている」
ディーン・アチソン
「新憲法」策定への執念
マッカーサーは、極東委員会を「苛め」すぎたと思ったのか、バーンズ国務長官に弁解を試みている。
「日本の憲法改正に関する極東委員会の権限は、指針的な政策案だけに限られるのは明らかである」。
マッカーサーは、委員会側にそのような政策案がないことを知っており、
「極東委員会からかかる政策指導がないので、私は、ポツダム宣言、降伏条件を、私の解釈に従って実施する限り、明らかに制約を受けない。......私はアメリカ政府から受け取った指示に従って忠実に行動してきた」
と説明した。
マッカーサーが、強硬な態度に出たのは、彼が幣原首相に言ったような「日本の幸せに絶大な関心」を抱いたからではなく、占領で最も重要な成果(新憲法)をめぐり、極東委員会と争ったからだ。
極東委員会が日本占領の政策決定機関として動き始める前に、彼は最も華々しい業績を自分だけで成し遂げたかったのである。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。