陸軍省vsマッカーサー
1947(昭和22)年1月、マッカーサーのブラック・リストに載っていた新聞も含めたジャーナリストたちが来日、陸軍省が予想したように、この旅行は大成功に終わった。
この成功に気をよくした陸軍省は、同年5月30日、再びマッカーサーに、太平洋地域での新しい取材旅行団の受け入れを要請した。
陸軍省はこの要請を陸軍長官名で行ない、「アメリカの卓越したジャーナリストを日本と朝鮮旅行に招待することについてご意見をうかがいたい」と恐る恐るマッカーサーの同意を求めた。
仕事の邪魔
ジャーナリストの扱いにうんざりしていたマッカーサーは、翌31日、
「GHQのスタッフは忙しすぎて、ジャーナリスト連中の質問や疑問に答えて、彼等が先入観として持っている占領政策に対する誤解を一掃するだけの時間的余裕がない」
と断り、「この電文の内容が外部に洩れないよう万全の注意を払って欲しい」とわざわざつけ加えている。
だが陸軍省は、「著名なジャーナリストの取材旅行は、日本で何が行なわれているかをアメリカ国民に理解させるのにも役立つ」とマッカーサーを説得し続けた。
陸軍省は6月12日、重ねて要請し、マッカーサーも日本訪問を7月に延ばすことを条件に、しぶしぶ承諾した。
記者不信
1948年1月15日、陸軍省は、新たな報道関係者の太平洋地域での取材旅行にマッカーサーの協力を求めた。「GHQの担当者は多忙のため、ジャーナリストたちの面倒をみている暇はない」と断った。
マッカーサーが心配しているような記事が、東京からアメリカへ送られ、彼の「記者不信」は募る一方だ。
例えば、マッカーサーのブラック・リストに載っていた新聞『デーリー・ワーカー』は、1948年1月3日付の紙面で「東京の高級将校たちは(大統領候補の)ウォーレスやアイゼンハワーに関する記事をも検閲している」「米軍機関紙『スターズ・アンド・ストライプス』もマッカーサーの第一子分であるホイットニー准将の検閲下にある」とGHQを非難した。
陸軍省はただちに、マッカーサーの説明を求めた。
1月8日、マッカーサーは怒りをこめた電報で、「この記事には信憑性が全くない。『スターズ・アンド・ストライプス』は、私からも完全に自由であり、編集方針は編集者の判断に任せられている」と突き返した。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。