日本はマッカーサーの領土
1945年9月27日、朝10時15分、天皇は、黒のモーニングコートとシルクハットを召(め)し、マッカーサーをアメリカ大使館内の、1930(昭和5)年に建てられた大使専用の住居(マッカーサーの宿舎)に訪問された。
外も内も、アメリカ大使に相応しい、優雅で風格のある館(やかた)である。
宮内省は、天皇の訪問を「非公式なお出まし」と国民に説明したが、日本国民はこれまでこうした前代未聞の天皇の行動を聞いたことがなかった。
外国人が天皇に表敬訪問するのが礼儀である。
天皇のマッカーサー訪問という公式発表によって、日本国民は、いまや誰が日本の「元首」であるかを悟った。
昭和天皇・マッカーサー会談
マッカーサーは、日本国民に自分の「力」を示すため、天皇を入口で出迎えなかった。マッカーサーの副官2人(ボナー・フェラーズ代将、通訳フォービン・バワーズ少佐)が正装の天皇を出迎えた。
マッカーサーと天皇は、35分間、天皇の通訳(奥村勝蔵)を通し、会談した。
奥村は東京帝大卒。一等書記官として、ワシントンの日本大使館で、1941(昭和16)年日米開戦の時、日本政府の宣戦布告をアメリカ政府に渡すのが遅れた職務怠慢という大失態に関与していた。
第4回目(1947年5月6日)の天皇・マッカーサー会見の通訳もするが、奥村はこの内容をマスコミに漏らした。バレて、懲戒免官処分になった。
開戦時の大ドジで免官にならなかったのが不思議である。不思議はまだ続き、占領が終った直後の1952(昭和27)年10月17日、吉田首相は奥村を外務次官に就任させた。
「マッカーサー回想記」
マッカーサーは後に、「私は、占領当初から天皇を粗野に扱ってはならない、天皇の最高権威者としての名誉を重んずるように指示してきた」と語っている。
「回顧録」「自伝」というものは注意して読むべきか。歴史の証言として信頼できない時もある。
しかし、この会見で、天皇陛下が言われた言葉が、軍人マッカーサーを感動させた。
天皇「私は、日本国民が戦争を闘うために行なった全てのことに対して全責任を負う者として、あなたに会いに来ました」
マッカーサー「この勇気ある態度は、私の魂までも震(ふる)わせた」(マッ カーサーの『回顧録』)
この会見で、「戦犯天皇」に対するマッカーサーの考えも変わっていった。
ジーン夫人と令息アーサーは、赤いカーテンに隠れ、この歴史的な対面を見ていた。
今は、この赤いカーテンは取り払われ、無い。白っぽい、クリーム色の短いカーテンだ。誰も隠れることはできない。
会見した部屋は、天井の高い、美しく大きな応接間で、暖炉もある。最近(1995年)、改装され、楕円形の窓際に立っている真白であった古代ギリシア風の柱は、赤土色の大理石に見せるように着色されている。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。