生贄は誰だ
「パージ(追放)」は、日本人の大好きな「清潔感」を呼び起こす言葉だった。降伏の恥を禊(みそぎ)にかけたような心理であったのだろう。
マッカーサーの追放政策は、日本帝国の「癌細胞」、戦争を支援したと思われる全ての日本人を一掃するのが目的だった。
「戦争を支援した」の定義は広く、曖昧だった。当然、抗議する人たちもいたが、重病の癌を手術するためには、多少の健康な血と肉の生贄(いけにえ)も止むを得ないとGHQは考えていた。
マッカーサーは、「戦犯狩り」を行なうため、国家委員会、県委員会、市委員会の設立を日本政府に命じた。彼は、「日本破局の張本人」を追放すれば、その浄化作用による心理的満足感から、日本国民は恩恵を得るだろう、と判断した。
敵国語・英語が重宝される
『ジャパン・タイムズ』の編集者、河合一雄(かわいかずお)は、「数100万の人たちが、文庫本サイズの質問書に履歴をこと細かに記載し、身の潔白を証明しなければならなかった。質問に対する答えは、英語で書かなければならなかったので、数少ない英語の通訳やタイピストを探して、狂気のように走り回る現象が生じた」と、その当時を振り返っている。
大蔵省も警視庁も英文タイピストと通訳の大募集を行なっていた。「男子55歳以下」と、当時としては高年齢の者をも必要としていた。
若い人たちは、敵国の言葉、英語を教えてもらっていなかった。
英語が良くできた吉田首相はマッカーサーに手紙を書き、戦争の全責任は「一握りの職業軍人、高級官僚、右翼の政党、財閥の一部」だけにあり、「日本国民はナチ・ファシスト党員とは全く違い、彼らは何も悪いことをしませんでした」と説明した。
マッカーサーは即座に返答し、「例外をつくる理由は全くない」。
吉田は「我々の努力は水泡に帰した」と回想した。
「追放」は2年間続いた。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。