犯罪人は誰だ
東京裁判が、1946年5月3日に始まった。
6月18日、キーナンは「天皇を戦争犯罪人として裁判にかけない」と言明した。
キーナンは、マッカーサーの電報で説得されたアメリカ政府の命令に従っていただけだ。天皇処刑を望んでいた他の連合国は、説得されて沈黙するか、なおも要求し続けると、無視された。
ソ連は、1950(昭和25)年2月1日に、天皇を戦犯として裁けと要求してきた。
アメリカ国務省は2月3日に返答し、「ソ連の天皇戦犯裁判要求はソ連地区に抑留されている日本人捕虜37万余名への関心を外(そ)らすために行なったものである」とソ連の要求を無視した。
極東国際軍事法廷(東京裁判)は、天皇の側近たちの「戦争犯罪」の資料集めに全力を挙げて続行していたため、天皇退位の噂は燻(くすぶ)り続けた。
天皇に退位されたら困るのはマッカーサー
東京裁判の判決(1948年11月4日)が出る5日前の10月29日、マッカーサーとシーボルド政治顧問(外交局長)は、天皇退位の可能性について話し合った。
シーボルドは、マッカーサーの推薦で政治顧問になった。
「シーボルドは素晴らしい判断力、指導力、極めて強い責任感を常に発揮してきた」と、マッカーサーは最大の称賛を国務省へ送った。これで、シーボルドは、1948年8月ハワイ真珠湾沖で飛行機墜落死したジョージ・アチソンのあとを継いだ。シーボルドはメリーランド大学を卒業し、戦前アメリカ大使館付き海軍将校として10年間、日本に滞在した。戦時中、アメリカ海軍に従軍した。
マッカーサーは、「天皇は退位を考えているだろう。あるいは、このA級戦犯裁判で出る判決が厳しすぎて、精神的緊張に耐えられず、心理的な冷静さを失い、自殺さえ考えるかもしれない」と言った。しかし、退位の噂はどれも「作り話でまったく実体はない」と自分を励ました。
マッカーサーは、天皇退位の可能性は作り話ではないと知っていたのだ。マッカーサーには天皇が必要なのだ。マッカーサーも必死である。
「天皇の退位は政治的な混乱を引き起こすだろう」とか、「私は天皇に思いとどまらせるため全力を挙げるつもりだ」とシーボルドに話した。
天皇も、A級戦犯判決が出るとすぐさまマッカーサーを訪問するつもりでいた。その時、天皇が「退位」を口にされると、マッカーサーは天皇に、「退位の考えは馬鹿げたことで、とんでもないことであるばかりか、日本国民にとっても、ひどい仕打ちとなる」と言うつもりだった。
シーボルトの手紙
シーボルドは、国務省の友人に書いている。
「マッカーサー元帥の意見は、私の考えとまったく同じなので、非常に嬉しかった。元帥の意見がアメリカ政府の見解でもあるようです、と私が言ったところ、元帥は他の意見はありえないと断言した。天皇退位は間違いなく日本の共産主義者たちを有頂天にし、大混乱を齎すもの、という点で私と意見が一致した」
その後、マッカーサーと天皇は会談し、退位の噂は消えていった。
マッカーサーが陸軍省に打電した長い極秘電報は、天皇を救った「蜘蛛(くも)の糸」だったのか。いやそうではない。今にも切れそうな細い「糸」にぶら下がっていたのは、マッカーサー自身だった。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。