戦犯第1号
日本国民に軍国主義の邪悪さを教え込まなければならない。失敗は許されない。
マッカーサーは、精神的武装解除の「第1歩」として、時を移さず「悪人追放」に取り掛かった。
日本国民の誰を追放するのか。
「愚かな計算(もくろみ)のために、日本帝国を絶滅の淵に導いた独り善がりの者ども」と「日本国民を欺き、世界征服に駆り立てた者ども」である。
厚木に上陸して12日後、9月11日の朝、マッカーサーは、元首相東條英機陸軍大将(62歳)が日本の戦犯第1号だ、と言った。
東条英機・自決失敗
その日の午後4時15分、占領軍の警察MP(Military Police)たちが逮捕のため同大将の邸宅に着いた時、東條は刀ではなく、メイド・イン・USAの32口径のコルト拳銃で自決しようとし、心臓を撃ち損ない、肺を撃った。
MPと1緒に連合軍従軍記者数10名も来ていた。
鮮血に染まり重体でありながら、横たわったままの東條はこれらの記者たちと会見し、「大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦だったと自分は信じて居る」「戦争責任者の引渡しは当然行うべきものではあるが、自分としては勝者の法廷に立つことは出来ない」「自分は初め切腹するつもりであった、しかし切腹は往々死損な う場合があるので拳銃をもって自殺をはかったけれども即死出来なかったことは 誠に残念である」と話した(原文は旧かな。『讀賣報知』1945年9月12日)。
この拳銃は、東條の娘婿古賀秀正参謀少佐(近衛第1師団)が、天皇陛下の玉音放送(降伏放送)を聞いた直後、割腹し、さらに口中を撃ち抜き自決した時に使われたものだ。
東條は横浜のアメリカ陸軍の野戦病院でアメリカ軍医の手当てを受け、回復した。アメリカ兵からの輸血をも受けた。病院で「容体良好」の東條は、第8軍司令官アイケルバーガー中将に陣太刀を送り、「迷惑をかけて申訳ない」と言った(『讀賣報知』1945年9月15日)。
生きて虜囚の辱を受ける
『ニューズ・ウィーク』誌は、「浅はかな東條は〝ハラキリ〟と呼ぶ古い日本の儀式・切腹という何世紀にも亘る先例があるのに、自殺しようとしても死にきれず、畳を血で汚しただけである」と痛烈な批判をした。
運命は、東條に優しくはなかった。
1941(昭和16)年、東條が陸軍大臣であった時、日米開戦の前、彼が陸軍の全兵士に丸暗記させるほど徹底させた「戦陣訓」に日本兵の「玉砕精神」の支えとなった有名な一句がある。
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
軍人東條が自決に失敗し、生き恥を曝したことは、日本国民に強烈な屈辱と失望感を齎し、また多くの人たちは怒りにも似た感情を味わった。
かつての武士たちが大切にした「敗者の美学」を汚した「東條」はきたない言葉になった。
これを聞いたマッカーサーは、「作戦」が思った通りに進んでいる、とほくそ笑んでいたに違いない。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。