マッカーサー元帥指揮による勇猛果敢な海兵隊は、1944(昭和19)年6月15日、サイパン島(日本帝国の重要基地)に猛攻撃を開始した。サイパン島の日本兵、3万1000名は23日間戦い続け、弾尽き、玉砕した。日本人の子供たちも母親と共に島の北へ追いつめられ、Suicide Cliff(自殺の絶壁)から次々と飛び降りる。その数、5000名という。
アメリカ兵3500名、戦死。
サイパン沖での海戦も悲惨な結末となる。日本海軍の航空母艦9隻の内、3隻は撃沈され、473機の零戦は956機のグラマンF6Fとの空中戦で、ほぼ全機撃ち落とされる。このサイパン島から、ボーイング社の新型B29爆撃機が福岡、大阪、名古屋、東京へ空襲をかけることになる。
零式艦上戦闘機(零戦、1000馬力、1940年に3菱重工業製造)は、日本の技術の粋を結集した世界1の絶品であった。零戦は航空母艦用に設計され、真珠湾攻撃、アジア・太平洋空中戦で抜群の旋回性能を発揮し、鍛え上げられた操縦者たちは向かうところ敵なしで、アメリカ空軍は「ゼロを避けろ」と指令を出すほどであった。
零戦の弱点
しかし、アメリカはアラスカ半島に不時着した零戦をグラマン社で徹底的に解体・分解し、弱点を探しあてた。零戦の急所は、「ガソリン・タンク」と操縦士の「座席」。共に薄いアルミ製で、敵の弾が当たると爆発か即死である。
グラマン社は零戦に改良を加えた。アメリカ空軍はグラマンF6F(綽名「ヘル・キャット」「地獄からの猫」)を1943年9月、南太平洋空中戦に登場させた。F6Fのガソリン・タンクは分厚く、かつ柔らかいスポンジ状の生ゴムで覆われており、少々の弾が当たっても穴がすぐ閉じた。座席も操縦士を包みこむように厚い鋼鉄で作られた。当然、重くなるので、F6Fには零戦より2倍強力なエンジン2000馬力がつけられていた。最高速力、時速611キロ。
空中戦で弾が当たってもグラマンは落ちなくなった。零戦が敗けだした。
製造数も桁違いで、零戦1機に対し、アメリカは50機以上もの色々な戦闘機を作ったと言われている。1939(昭和14)年3月から1945年8月までの6年間で、零戦の総製造数は1万936機(『産経新聞』1998年6月16日)。アメリカは、ヘル・キャットだけでも、2年間で1万2000機も製造した。
サイパン島の胸が張り裂けるような惨劇から35日後、グアム島の日本兵1万8000名、玉砕。
真珠湾で輝かしい戦果をあげた誇り高い日本の太平洋艦隊は、1944年10月24日、フィリピン島のレイテ湾激戦で無数のアメリカ空・海軍のグラマンF6F戦闘機に敵討ちをされ、撃沈された。戦艦「大和」の姉妹艦「武蔵」はここで沈められた。
マッカーサーはレイテ湾に上陸し、日本軍を全滅させる。その翌日、初の神風特攻隊が死地へ飛び立っていった。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。