From: 岡崎 匡史
研究室より
「士農工商」から「四民平等」へ。
江戸時代は、藩校や寺子屋や私塾で学んでいた子どもたちも、明治になってからは尋常小学校に通うことになる。武士、農民、職人、商人などの身分に関係なく、生徒が同じ机に並んで勉強した。
1872(明治5)年、「学制」のもとで小学校教育の普及がはかられた。伊藤博文内閣の初代文部大臣・森有礼(1847〜1889)は1886(明治19)年に「勅令第14号、小学校令」を公布し、教育体制の整備を推進。小学校令により「義務教育」が定められた。
といっても、農作業で忙しい親たちは、子どもを学校に通わせたいとは思わない。実際の就学率は50パーセント前後。それでも、森有礼の尽力により、全国民に対して均一な教育が行き渡る基礎ができた。
愛国心
森有礼は西洋で学び進歩的な思想家であったと思われている。しかし、森の教育政策は、日本が西洋に追いつき「国家意識・愛国心」を鼓舞し、国力の底上げに力を入れたものだった。
森の教育政策は、西洋思想による日本の啓蒙であり、天皇を国家の「機軸」に置いて近代日本を担う人材を育成を目指した。
森大臣は、学校長に「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」「学生上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを終始記憶せざるべからず」と訓辞していた。
さらに興味深いことに森有礼は、愛国心の育成に「音楽」や「唱歌」に注目していた。「紀元節歌」や「天長節歌」を文部省に作成させ、「忠君愛国ノ士気」を生徒の内面からはぐくむ。 同じ時代を生きた人間なら、出身地が違えど、見ず知らずの関係であっても、唱歌によって団結心と共同体を醸し出すことができるからである。
祝日と儀式
森有礼は「祝日大祭日」にも関心を寄せている。学校儀式を国家の祝日に挙行して、人格教育へと発展させようとした。
明治元年から明治20年まで、祝日大祭日は当然のごとく学校は「休日」。しかし、森の提案によって1888(明治21)年を境に、祝日は祝賀式挙行の日へと全国的に移行されてゆく。
「教育勅語」が発布された翌年の1891(明治24)年、「小学校祝日大祭日儀式規程」が成立。明治20年代、生徒の儀式出席率は半分程度。この状況を憂慮した文部省は、儀式を三大節(四方節・紀元節・天長節)に限定。さらに、その他の祝日の儀式は、運動会や音楽会や創立記念日など学校行事と併行して実施した。
1894(明治27)年の日清戦争を転機として、学校における儀式は兵士や軍隊の歓送迎会・戦勝行事にも適用され、学校行事を通じて「忠君愛国」の士気が強化されていった。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・井上久雄編『明治維新教育史』(吉川弘文館、1984年)
・菊池美智子「教育史における森有礼の評価」『教育学雑誌』第15号、1981年。
・ 長谷川精一『森有礼における国民的主体の創出』(思文閣出版、2007年)
・ 佐藤秀夫編『続・現代史資料(8)』(みすず書房、1994年)
・山本信良、今野敏彦『明治期学校行事の考察 近代教育の天皇制イデオロギー』(新泉社、1973年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。