From: 岡崎 匡史
研究室より
「山縣有朋と庭園」では、「椿山荘」「古稀庵」「無鄰菴」を紹介しました。
今日のブログは、その続きです。
山縣有朋の足跡は、東京の一等地にも残っている。
それが皇居のすぐ近くにある「三番町共用会議所」です。現在、農林水産省が管理しております。
普通、「会議所」と「庭園」は結びつきません。
しかし、三番町共用会議所は、「山縣有朋邸宅跡」に建てられた会議所なのです。
山縣有朋邸宅跡
三番町共用会議所(山縣有朋邸宅跡)は、紅葉シーズンの穴場スポットとして「知る人ぞ知る」という場所です。
無料で見学することができますが、年に数日間しか一般公開されない。例年、11月末から12月上旬に開放されます。はたして、今年はコロナの影響で庭園が開かれるのか、先行きは不透明です。
三番町共用会議所には、本館と別館があります。2階建ての別館は、建築家の大江宏(おおえ ひろし・1913〜1989・法政大学教授)が手がけたもので、日本の伝統様式とモダニズムを融合させたもので、今でも色あせておりません。大江宏は、国立能楽堂を設計したことでも有名です。
明治天皇行幸
私も数年前に、三番町共用会議所に実際に訪れました。残念ながら、山縣有朋が暮らしていた邸宅は現存しておりません。というのも、太平洋戦争中の1945(昭和20)年5月24日に空襲を受けてしまい、大部分の建物が焼失してしまったからです。
しかし、庭園の跡は残った。庭園には、明治天皇が山縣邸を訪れたことを記念する「行幸碑」(ぎょうこうひ)が現存している。山縣有朋が詠んだ和歌も、本人の書体で彫られている。
今年、十月十九日
今上天皇が有朋の私邸に行幸され、光栄に預かること大である。又、銀杯、貨幣を下賜される。 有朋は謹んで来国光の刀一口及び松蔭先生の書二幅献上した。
この日、宴に侍する者は、皇族、内閣諸侯及び武官若干名なり。(陸軍)戸山学校の下士が銃剣旗を奏し、宮内官吏等は、刀槍術を演じ、御覧頂いた。饗応の際、夕刻となり陸軍楽隊に演奏させる。 夜になり、多くの球燈を点け、煙火(註:花火?)を放つ。既に儀仗兵の隊列の準備の知らせが入り、龍技(錦旗)は宮城に還られた。嗟有朋の幸この上なし。ここに臨幸の始末を記し、併せて二品の由来を録し、将来に伝える。
明治十八年十一月
従三位 伯爵 山縣有朋 謹んで識るす。
天津かせ
えたをならさぬ
君かよは
こゝろ
のとけく 匂ふ梅かゝ
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・農林水産省「三番町共用会議所」大臣官房予算課、2018年
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。