難民となった日本人
難民といっても、日本人にはまだまだ実感がありません。特に若い人にとってはさっぱりわからないでしょう。
第二次大戦後の満洲やシベリア、朝鮮半島では、多くの日本人が難民のような状態になりました。私の叔父は、満洲から帰ってきました。キャンプで使う飯盒(はんごう)を知っていますか。使い続けると真っ黒になるのですが、叔父はこれを肌身離さずびっしりと抱えていました。ここに、お粥やスープを入れてもらい、飢えを凌いでいたのです。
叔父は、普通の背の高さの男でしたがガリガリでした。人間、こんなに痩せても立つことができるのかと思うぐらいに痩せていました。
引き揚げ船
第二次大戦時に日本以外の国・地域にいた日本人らは船に乗って帰ってきました。満洲からも船で帰ってきました。その船には、私の今の友人も乗っていました。当時は「5、6歳の時だったなぁ」などと話していましたが、船には兵隊も乗っていたようです。
聞いた話では、戦前に威張り散らしていた憲兵隊や警察、軍の親分さんたちは、船の外に放り投げられたようです。日本に戻ってくる途中にです。日本人が、日本人の元憲兵を、海に放り込む。私の友達は「見た」と言っていました。
憲兵らが居なくなった船で、皆さん、安心したらしい。
帰国してもなお難民
彼らは日本に帰国してもなお難民でした。敗戦国の日本では、帰国者も含め、日本人全員が「難民」となったと言っても過言ではない。
戦後の日本は極貧国でした。何もかもズタズタに破壊され、焼け野原が広がっていた。しかし、そこで暮らさざるを得なかったわけです。あのときの日本人と今の難民を比べたら、ヨーロッパへ逃げる難民のほうがまだ希望がありました。このときの日本には何もありませんでした。
東京大空襲後の東京
国民への謝罪
私は、日本の総理大臣はまず「日本国民に謝れ」と何度も主張しています。難民は日本国民のことでした。ところが、政府はそれを認めない。戦争に負けたにもかかわらず、「敗戦」ではなく「終戦」と呼んだ。
当時の日本国民一人一人が、どれだけ苦しく、大変な生活をしたか。私も父母の苦しさを間近で見ました。同じことが、北海道から沖縄まで起きていた。なぜ政府はこの事実を認め、謝らないのか、私にはわからない。
食べ物を求めて、三千里歩いてもない時代です。食べ物を手に入れたら、「分ける」という概念はほとんどなくなっていました。分けるだけないのです。当時は大家族、子どもの数が多かった。お母さんは、着物などを売って食べ物を買ってきますが、5人家族でも、3人分しかない状態です。現代のコンビニエンスストアが天国に見えます。おにぎりなんか見ると、涙が出る。
西鋭夫のフーヴァーレポート
2015年9月下旬号「難民」− 6
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。