南洋庁と中島敦

by 岡崎匡史 August 26th, 2017

blog30.jpgFrom:岡崎 匡史
研究室より

サイパンの歴史は複雑です。

大航海時代の幕開けでスペインの植民地となるが、その後ドイツに売却される。

第一次世界大戦でのドイツ敗戦を契機に、日本はサイパンやパラオなどミクロネシアの島地を引き継ぐ。1920(大正20)年から1945(昭和20)年までサイパンを統治した。現在ではアメリカの自治領となっている。

中島敦と南洋通信


日本は南洋諸島を統治するため「南洋庁」と呼ばれる行政機関を設置した。

小説家の中島敦(1909〜1942)は、1941年にパラオの南洋庁に教科書編纂掛として赴任している。

中島敦の『山月記』や『李陵』は国語の教科書にも載っており、日本を代表する作家だ。しかし、南洋を舞台にした短編『南島譚』『環礁』も読み応えがあり、『南洋通信』と題して公刊されている。

南洋庁と教科書


中島敦は、南洋庁での仕事をどう感じていたのだろうか。

妻への手紙には、中島敦のホンネが書かれている。


「今度旅行して見て、土人の教科書編纂という仕事の、無意味さがはっきり判って来た。土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある、教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるということは、今の時勢では、出来ないことなのだ。今の南洋の事情では、彼等に住居と食物とを十分与えることが、段々出来なくなって行くんだ。そういう時に、今更、教科書などを、ホンノ少し上等にして見た所で始まらないじゃないか。なまじっか教育をほどこすことが土人達を不幸にするかも知れないんだ。オレはもう、すっかり、編纂の仕事に熱が持てなくなって了った。」


この手紙から1ヵ月後、中島敦はサイパンで真珠湾攻撃をニュースで知る。翌年の1942年3月、戦争の悪化、さらには体調がすぐれず本土に戻る。

中島敦は南洋庁を辞め、本格的な作家生活に入ろうとする。芥川賞候補にも名前があがった。

だが、慢性的なぜんそくに悩まされ続けた中島敦は、病に冒され1942年12月3日に逝く。享年33歳。


ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
中島敦から中島たか宛書簡(昭和16年11月9日)中島敦『中島敦全集 2』(1993年、筑摩書房)

この記事の著者

岡崎匡史

岡崎匡史

日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。

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岡崎匡史

岡崎匡史

日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。