原爆と科学教育
戦後初の文相になった前田多門は就任演説(1945年8月18日)で「科学教育」を充実させると宣言した。
その理由は、原子爆弾である。
広島と長崎の惨状は、日米間の息を飲むような科学技術力の差を曝け出した。徳川末期、ペリーの黒い軍艦が日本を脅かした時のように......。
広島と長崎を黒い灰の山にした原爆につき、大本営が8月14日、降伏の前日に発表した「解説」は、国民に恐怖を与えないようにとの配慮もあったろうが、二国間の科学力の差を克明に見せつける。
「要するに敵が誇大宣伝するが如き絶対的威力を持つものであるということは出来ぬと同時に狼狽することなく処置すれば被害を最小限度に止め得ることが出来る」
「その閃光による熱線の人に対する被害は......方向が一定している点からすばやく物かげに隠れること或いは露出個所をおおうこと、而も白いものでおおうこと等によって十分被害を最小限度にとめることが出来る」(原文は旧かな。『讀賣報知』昭和20年8月14日)。
1945年9月7日、『毎日新聞』は、原爆を持つ国は将来は大規模な武装を必要としなくなる、との社説を掲げた。
文化的日本の確立
科学熱に取り憑かれた文部省は、「文化的日本の確立」のため科学を専攻する学生に特別奨学金を支給することにした。
「科学」は「文化的」と考えられ、文化的にも科学的にも成長した日本は、科学的に成熟しているアメリカに二度と無謀な戦争を仕掛けないと思われたのだろう。
前田文相は、マッカーサー元帥が自分を注意深く見張っているのを知っていたので、彼がいかによく民主主義を理解しているかを印象づける努力をした。
9月15日、文部省は「新日本建設ノ教育方針」を発表した。「私自身が書いたもの」と前田は言った。
この「新教育方針」は、マッカーサーの教育改革に関する指令に先行するだけでなく、GHQ・CIE(民間情報教育局)が設置される7日前でもあった。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。