極東委員会
マッカーサーが、占領政策決定権を持っている極東委員会と、事前協議もなく、1946年3月6日に憲法草案を承認したことは、「政策決定者は誰なのか」という厄介な問題を引き起こした。
4日後、極東委員会は、「この承認は日本国民に誤解を与え、極東委員会がこの草案に同意をしていると受け取られる恐れがある」と抗議した。
この誤解を解くため、極東委員会は、マッカーサーが日本国民に、「この承認は今後、国会に提出される他の草案を排除するものではない」と声明を出すよう要請した。
マッカーサーがそのようなものを出す訳がない。同草案のみが、日本国会の審議すべき唯一のものだった。事実、この草案は、マッカーサー自身の会心の作品だ。
さらに、極東委員会は、「同草案がポツダム宣言に合致しているかどうかを検討するので、最終草案を委員会に差し出せ」と要求した。
2日後、3月12日、バーンズ国務長官は極東委員会に、「憲法が採択される前に、極東委員会に審議してもらう」と確約した。
戦後初の衆院選
バーンズの約束も極東委員会を満足させなかった。憲法採択に決定的な影響を及ぼす戦後初の衆議院の選挙が、一カ月後の4月10日に予定されていたからである。
マッカーサー自身も、この選挙が「事実上、国民投票の意味をもつ」と言っていた。
3月20日、極東委員会は、草案が日本国民に提出されてから選挙までの期間が短すぎ、「反動的保守政党」だけが有利になり、「この草案賛成派に政治的利点を与えることになるので、選挙を延期せよ」と強く要求した。
これと同じ台詞が、4月10日付ソ連紙『イズベスチヤ』の社説になっていた。モスクワのアメリカ大使館は、マッカーサーと国務省にそれを打電した。
「もし選挙の結果、占領目的に不利になるようなことがあれば、私(マッカーサー)は国会を解散し、再選挙をさせる」
と反論し、極東委員会を無視した。
マッカーサーは、全候補者の徹底的な人物調査を行ない、好ましからざる候補者を追放した。選挙は予定通り、1946年4月10日に実施され、その結果はマッカーサーを満足させ、彼は「民主主義は前進した」と述べた。
戦後初となる衆院選後の国会の様子(39名の女性代議士が誕生した)
しかし、ソ連紙『プラウダ』は選挙結果について、「日本帝国主義の犯罪に責任ある反動政党の支配を再確認し、マッカーサーは彼らを支持した」と手厳しく批判した。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。