日本経済は瀕死
マッカーサーの財閥解体は続行され、日本の経済を一層麻痺させた。
混乱を続ける日本経済は、マッカーサーが忌み嫌う共産主義の成長を促したばかりではなく、財政的重荷をアメリカに背負わせることになった。
日本人は、アメリカからの食糧輸入に感謝はしたが、この恥ずかしい依存を心から歓迎したのではない。しかし、日本国民のアメリカ依存は、マッカーサーの日本統治を容易にした。
片山首相、マッカーサーに具申
驚くべき抗議が、社会党の片山首相から届いた。
1947年9月4日の朝、片山首相は、財閥解体について話し合いたいとマッカーサーに会見を申し入れてきた。マッカーサーは片山に会いたくなく、「1日中忙しい」と一蹴した。
同日、片山首相は「親愛なる陸軍元帥閣下」と書簡を送り、財閥解体をこれ以上続行することは、「すでに瀕死の日本経済をさらに弱らせ、日本の自立能力、競争力を剥奪し、日本を永久にアメリカの施し物に頼る国に変えてしまうことになります」「私は総司令部が、日本の産業界にそういう事態にならないという保証を与えるべきだと思います。日本企業を不必要に分散することは、総司令部の意図ではないと信じております」とまで言った。
マッカーサー、片山を説教
同月10日、マッカーサーは、「日本を平和で民主的な新しい方向へ導くための私の努力は、繰り返すまでもなく、あなたは良く知っているであろう」、日本が「連合国軍の政策に従うことが、日本人の誠実さを世界に納得させることになるのである」と説教し、「現行の財閥解体政策を修正すれば、不必要な疑惑を生み、その結果、より一層厳しい解体が実行されることになろう」と脅した。
社会主義者の片山に、マッカーサーは聞く耳を持っていなかったのだ。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。