党首・吉田茂の誕生
マッカーサーの絶対的権力は、吉田茂(68歳)にも明らかだった。
吉田は東京帝国大学で政治学を専攻し、外務省に入り、イギリス、イタリアの各大使を務める。
加瀬俊一氏は、「私は吉田さんにとても気に入られたようでした」と私に話された。この加瀬は、情報部長として1945(昭和20)年9月2日、米戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印に随員として列席した。
吉田のライバル、鳩山一郎がマッカーサーに追放されたため、自由党党首になった吉田が新首相に任命された。
マッカーサー様
吉田は1946年5月10日、「わが親愛なる元帥様」に手紙を書き、自分が首相になってもよいかどうか、「あなたの意見をお聞かせくださるようお願いいたします」と求めた。
「No objection from SCAP. Best of luck.(反対しない。幸運を祈る。マッカーサー)」というのが答えだった。
マッカーサーの返答の仕方は、吉田への手紙ではなく、吉田の手紙の空白に手書きしたものだった。アメリカでは、これは目上の者が目下にする。
陸軍省軍事情報局は、「戦前、吉田は英米両国との友好関係を望んでいたため〈リベラル〉のレッテルを貼られたが、現在の日本政治家の中では保守派と見られている」とマッカーサーに報告している。
パージ(追放)はさらに拡大され、地方行政府から好ましからざる人物たちを探し出した。
GHQ民政局は、選挙が始まる前に、地方政界から「約7000人」、経済界から「約600人」、マスコミから「200人」を追放したと発表した。
国務省の調査分析局は、「軍国主義者たちを追放することで得られる直接的な効果は、心理的なものである」と読んでいたが、心理的なものを遥かに越えていた。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。