軍国主義抹殺
「日本を完全武装解除し、非武装化する。軍国主義者たちの権威と軍国主義の影響を政界、経済界、社会生活から完全に抹殺する」
「軍国主義と侵略を推進した諸機関を徹底的に潰す。......日本は陸軍、海軍、空軍、秘密警察機構を持ってはならない。いかなる形でも民間航空を持ってはならない」
これは、アメリカ政府の公式宣言である。
この政策を実行するため、マッカーサー司令部は、「逮捕、拘留されるべき日本人」と「廃止する団体」のリストを作った。恥と罪悪感に悩まされていた日本も懸命に協力し、日本潰し作戦は猛スピードで進んでいった。
アメリカが日本の原爆製造の能力について強い関心を持っていたのは当然であろう。
核技術を潰せ
アメリカ科学情報調査団は、占領開始と同時に、日本で調査に取り掛かり、団長のマサチューセッツ工科大学(MIT)学長カール・T・コンプトン博士は、1945年10月4日、トルーマン大統領に次のような報告をした。
「日本の原子物理学者たちは、原爆製造に結びつく科学的事実を熟知しております。彼らの計算では、反応速度が遅すぎて爆発には至らないという誤った結論に辿り着き、日本は原爆製造から手を引きました。」
「しかし、日本の原子物理学者たちは、エネルギー源として、石炭に代わるウラン235を製造するため、試験的な製造施設に着手しましたが、我が空軍の東京空襲で、この核研究施設は破壊されました。これが日本の原子力開発への努力を潰しました」
ウラン235は原爆の原料。アメリカ政府の心配が終わったわけではない。日本の科学者たちが核分裂について研究していることは、重大問題であり、放置しておけない。
「コンプトン報告書」から27日後、10月31日、統合参謀本部は極秘命令でマッカーサーに、「原子力やそれに関連した全ての研究施設を接収し、研究に従事した者全員の身柄を拘束せよ」「原子力に関連した研究活動を禁止せよ」と指示した。
サイクロトン、東京湾に破棄
1945(昭和20)年11月24日、マッカーサーは統合参謀本部に「11月20日、サイクロトロン5基接収、11月24日、取り壊し始まる。内訳は、東京の理化学研究所サイクロトロン2基、大阪帝国大学の2基、京都帝国大学の1基である。付属データも押収した」と報告した。
理化学研究所
サイクロトロンは、原子アトムを破壊し、人工的に放射能を起こさせる装置。壊され、東京湾に捨てられた。
4日後、マッカーサーは参謀総長ドゥワイト・D・アイゼンハワー元帥から極秘要請を受け取った。
アイゼンハワーは、マッカーサーの後輩で、ウエストポイント陸軍士官学校を卒業し、1935年から4年間、フィリピンでマッカーサーの参謀を務めた。ナチ・ドイツとの戦いで才能を発揮、1945年5月7日、ドイツの降伏を受け取った。参謀総長を1945年から48年までし、その後、コロンビア大学学長を、1953年に大統領になるまで務めた。1960年、若いケネディに引き継がれる。
アイゼンハワーは、「アメリカで組み立てるため、無傷のままサイクロトロンを日本から船積みすることが可能か」「我々は東京の理化学研究所の大型サイクロトロン、あるいは大阪帝国大学の2基のうちのどちらかに関心がある」と言った。
遅すぎた。1基も残っていない。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。