岸信介
憲法改正について意見表明を行った安倍総理ですが、そんな総理のご家族の歴史を見ていきたいと思います。家族の歴史は人格形成や主義主張に深く関わります。
安倍総理の祖父は1957年に総理大臣についた岸信介であり、父は自民党幹事長を歴任した安倍晋太郎です。安倍晋太郎の妻は岸信介の娘にあたります。岸信介から見れば安倍晋三は孫です。ちなみに、岸の実弟は佐藤栄作です。佐藤栄作も総理大臣を務めました。では、岸信介とはどのような人物だったのでしょうか。
岸総理はプラスもマイナスも、高い評価も悪い評価も混ざった人だったと思います。私が岸信介の話を最初に聞いたのは、ちょうど18歳のとき、1960年の安保の大騒動のときです。そのとき大学では、先輩たちが「神戸のデモに行く」と言って勉強会を開き、30分ほどマイクを持ってワーッと話しておりました。先輩が岸の悪口をいっぱい言うわけです。もちろん私たちはそれを全部信じて、ワーッと突撃していったのですが、あとになって勉強してみると、岸総理の凄さがどんどんと分かってきました。

満洲の参スケ
岸信介ですが、東大に行かれて、卒業後には官僚になりました。そこから満洲に行きます。彼は人脈をつくるのが非常にお上手でして、満洲でも様々な人脈を作ります。当時の満洲には「参スケ」という有名人がおりましが、岸はそのうちの一人でした。もう二人は、後に外務大臣を務めた松岡洋右、そして日立の創始者となる鮎川義介です。
満洲から帰ってきた後も、日本社会にて人脈を作りながら、政治の世界へと入っていきます。お金持ちもたくさん知っていました。特に有名なお友達は藤山愛一郎です。王子製紙の家に生まれた社長さんの息子さんですが、その人ととても仲良くなりまして、色々な研究を見ていくと彼が岸信介の軍資金を出したと言われています。
その岸が戦後、A級戦犯として起訴されました。これはどういう背景からだったのか。
なぜA級戦犯になったのか
これはとても興味深い内容です。一つは、勝利した国であるアメリカが、太平洋戦争の始まりを1931年の満洲事変からと捉えていたことに関係します。すなわち満洲事変がこじれて、北京郊外の盧溝橋にて小銃による二、三発の発砲があった。そこから日中戦争になっていく、という流れです。この一連の流れに岸がかかわっていたということです。
もう一つは、満州からの帰国後、東條内閣に入ったことが挙げられます。真珠湾攻撃を認めたのは東條内閣です。岸はそれを認めた文書に内閣の一員として署名しているのです。ゆえに岸は、日本の戦争を支援し、応援していた大臣の一人として認識されたわけです。東條はじめ、内閣に入っていた他のメンバーも同じく戦犯に指名され、巣鴨プリズンに入りました。
釈放から総理へ
では、彼はどうして釈放され、首相の地位にまで上りつめたのでしょうか。これは多くの研究がすでに指摘しているところですが、一つにはジョセフ・グルー大使との関係があります、彼は満洲国ができた時に日本のアメリカ大使館で大使を務めていた人です。
グルーと岸は非常に仲がよかった。お互いに好きだったのです。A級戦犯になって、グルーは「岸はそうか、もらったのだな。あいつは満洲にいたからな」となった。いろいろ調べると、岸は東條が大嫌いでした。アメリカが彼を一番評価したのは、東條内閣の中で戦況が悪化したときに、岸が「もう、先生、やめましょう。停戦にしましょう。私たちは負けた。被害を少なくするために、もう止めよう、と言いましょう」と進言したことでした。つまり1944年ぐらいには、もうやめようと言っていたのです。
グルーはまた「岸はいいやつだ。長い間よく知っていて、人物評価は完全にプラスだ」と話しておりました。
西鋭夫のフーヴァーレポート
憲法改正(2017年5月下旬号)-4
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。

