硫黄島の戦い
日本軍とアメリカ軍との激戦地のひとつが「硫黄島」です。硫黄島は、東京から約1,200キロ離れた小笠原諸島の南東に位置しています。1945年2月から3月にかけて、日本軍とアメリカ軍の熾烈な戦いが繰り広げられました。日本兵はおよそ1万9,000人が玉砕、アメリカ兵も約6,800人が戦死しました。
皆さん、硫黄島を攻撃したアメリカの海兵隊はここで7,000人近く戦死しています。これはアメリカにとって前例のない損害でした。あの小さな岩と火山灰に覆われた島にて、海岸線を中心に激戦が展開されたのです。日本軍は戦況が不利になると、山の中の洞窟へと逃げ込みました。
どれほど激しい戦いだったかを物語る象徴が、今もアメリカのワシントンにあります。摺鉢山(すりばちやま)の頂に星条旗を立てるアメリカ兵5~6人の銅像です。あの銅像は、アメリカの「勇気」と「英雄」の象徴としてワシントンに飾られております。それほどまでに熾烈な戦いだったのです。

玉砕
一方の日本はどうだったか。あそこには水がほとんどありません。飲み水がないのです。では、どうするか。夜中に真っ暗な中を這っていって、アメリカ軍の陣地から水を盗んで飲むのです。食べ物などあるはずがありません。
アメリカだったら「こんな状況ではもう降参だ」となるところです。しかし日本は戦ってしまう。そして「捕虜になるな」「辱めを受けるな」「自害せよ」と兵士たちに命じておりましたから死ぬまで戦うことになりました。
アメリカはそれを「バンザイ・アタック」と呼んでいました。軍刀や銃剣を抜いて、ダーッと突撃してくる。その日本兵に向かって、アメリカは機関銃をガンガンと撃ちまくる。弾薬は山ほどあるのですから、いくらでも撃てます。日本兵が洞窟に逃げ込むと、「出てこい!」と叫び、出てこなければ手榴弾を投げ、火炎放射器を放ち、また手榴弾、火炎放射器を放つ。その繰り返しです。ですから硫黄島には、いまなお多くの日本兵の遺骨がうずもれたままです。統計によりますと8,000名から9,000名の遺骨がいまだに残されております。
アメリカ兵の遺骨
一方で、アメリカ兵の遺骨はどうなったのか。アメリカでは戦死者をその場で埋葬するときも、必ず穴を掘ってできるだけ防水処理を施し、埋めます。そして戦闘が終わると、別の部隊が来てその遺体を掘り起こし、棺に入れて船で本国へ送還します。
その際、白っぽい金属製のタグをつけまして、そこに番号を刻み、誰の遺体かすぐに分かる仕組みを作っています。そして、もし家族が見つからない場合でも、ナショナル・セメタリーという無名の兵士たちを埋葬する墓地に丁重に埋葬されます。それがアーリントン国立墓地です。
つまり、硫黄島で戦死したアメリカ兵は、ほとんどが家族のもと、あるいはアーリントンに帰ってきたのです。アメリカは、最後の一兵に至るまで遺骨を発見し、帰国させることに全力を注いでおります。
西鋭夫のフーヴァーレポート
戦没者遺骨と慰霊(2021年8月上旬号)-4
この記事の著者

西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。