生と死のはざま
シベリアでは当然のことながら多くの者が命を落としました。では、その数はどれほどだったのでしょうか。アメリカはソ連の代表に東京でこう言いました。「お前たちは60万人もの日本人を捕虜にしたが、帰ってきたのは10万人程度ではないか。あとの50万人はどうなったのだ」と。するとソ連の代表は「いや、全員返しましたよ」と返答しました。
皆さん、これは単に「死んだ」という話ではないのです。バタバタと凍え死にして、そこら辺に打ち捨てられたのです。私は昔、あちこちでよく聞きましたが、凍死というのは眠くなって死ぬのでまだ楽なのだそうです。「一番つらいのは飢えだ」と聞かされました。肉体が「食べろ、食べろ」と叫ぶのです。でも、寒いと疲れが押し寄せてきて、眠くなり、そのまま死ねてしまう。だから凍死はまだいいということでした。
しかし飢えはもちろん本当に苦しいことです。ソ連兵もそれをよく知っていました。だからこそ、ジャガイモの袋を出して「これを全部やるぞ」と言ったのです。おじさんは「そのジャガイモを皮まで全部食べた」と話してくれました。
豊かな時代に「ジャガイモの皮を食べるとは冗談でしょう」と思うかもしれません。しかし冗談ではないのです。とにかく、飢えは相当きついのです。私も飢えを知っています。戦争が終わった直後の占領期、それはもうすごかった。私たちは何でも食べました。
なぜ正確な数が把握できないのか
アメリカはシベリアに抑留された日本人の数を「およそ60万」と見積もっておりましたが、本当の数はどうなのでしょうか。現在でも正確な数はわかりません。皆さん、アメリカは世界のあちこちで戦争をしていますが、「どこで何人がどのように死んだか」をすべて記録しております。たとえベトナムのようなジャングルでの戦いであっても、しっかりと把握しているのです。
では、日本はなぜそれができないのでしょうか。調べないのですか。それとも、もう見たくないのでしょうか。しかしあれは国の名で行った戦争です。見ないふりをしてはいけません。ちゃんと追及すべきですし、国は責任をとって調べるべきでしょう。
しかし、それが出来ていないのです。それゆえ一部の民間人が自力でやらざるを得ない状況が生じているのです。
死亡者名簿の作成
村山常雄(むらやまつねお)さんという方がいます。有名な方です。シベリア抑留の生存者でもある村山さんは70歳になってから、シベリアで亡くなった人たちの調査を始められました。亡くなった方々の死亡時期や場所、死因、埋葬地などをひとつひとつ調べ、データベース化していったのです。その数は4万6300人です。
村山さんの活動は、遺族にとって非常に大切な仕事だったと思います。それはもう、ひざまずいて感謝するほどのありがたさだったと思います。日本では厚生労働省が外部の誰かを雇って遺骨収集作業や調査を行っておりました。しかしその内実は、もちろん全てではありませんが、ひどいものもありました。硫黄島に実際に行った人の話も聞きましたが、正直ここでは言いたくないような、「え、そんなことなのか」と思うような実態だったそうです。
なぜ民間人がこんなことをしなければならないのか。日本のようにお金がある国で、なぜ国を挙げて取り組まないのか。皆さん、一斉に本気で取り組んでいれば、どれだけ早く決着がついたか分かりません。ソ連だってお金がない国です。「ソ連の開発を手伝ってあげますよ」とか言って、お金を出しながら作業を進めれば向こうだって動いてくれます。それを全て民間にやらせるなんて、酷い話だと思います。
そして今、私たちは「戦争はもう終わった」「戦争は自分の時代の話ではないから関係ない」などと思っているのです。そんな空気が広がっているのです。歴史観が欠けていると思います。歴史観を持たない国は潰れます。
西鋭夫のフーヴァーレポート
下駄と日本人(2021年10月下旬号)-3
この記事の著者

西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫

1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。