羨望の地
歴史をさかのぼると、日本はかつて「黄金の国・ジパング」などと呼ばれたことがありました。マルコ・ポーロが『東方見聞録』で日本を「黄金の国」と紹介したからです。それから、約250年後の1549年にイエズス会の宣教師フランスシスコ・ザビエルが日本に上陸しました。
そのジパングですが、『東方見聞録』によれば「金銀が余り過ぎている」と記されております。道については、皆さん、ヨーロッパの町は小さい石がバーンと敷き詰められているわけです。しかしジパングでは「道に金銀が使われている」と書いているのです。家についても、たとえば「屋根は土の瓦ではなく、金を薄く伸ばして敷いてある」と記されているのです。
『東方見聞録』に書かれたジパングの姿に誰もが夢中になりました。クリストファー・コロンブスもその中の一人です。彼はポルトガルからダーッと出てきますが、まさかアメリカ大陸に突き当たるとは思っていません。彼はジパングを目指したのです。コロンブスが持っていた『東方見聞録』には、もうあちこちに書き込みがあったり、紙が挟んであったりと、熟読の跡があったようです。
ザビエルの狙い
では、その地にやってきたザビエルは何をしにきたのか。それはもちろんキリスト教を広めることでした。しかしそれだけではありませんでした。黄金を求めました。またそれと同じくらいに日本の「銀」にも注目していました。有名なのは石見銀山です。
当時はスペインとポルトガルが世界を牛耳っておりましたが、その中で流通していたのは銀の方でした。金はもちろんありましたが、まだまだ高価で希少でした。その銀なのですが、石見で非常に大きな銀山が見つかったのです。その量は、当時の世界に流通していた銀の3分の1ほどと言われております。あの小さな石見銀山から大量の銀が産出されたのです。
大航海時代の親分さんたちが知らない話ではありません。ジパングにあるという石見銀山に注目しておりました。フィリピンを植民地にしたスペインが目指したのは日本の銀です。そしてスペインの後を追いかけてポルトガルがやってきた、ということになります。
交易
では、スペインやポルトガルの商人たちはいかにして日本の銀を手に入れようとしたのか。中国と日本、そしてヨーロッパとの間の交易です。
日本に対しては「火薬」と中国産の「絹」を持ち込みました。支払いは銀です。日本のお侍さんたちやお金持ちは、中国の絹が欲しくてたまりません。商人たちはそこに目をつけ、中国の絹を日本人に高く売りつけたのです。売買に用いた銀ですが、日本の銀は良質で99.9%の銀でした。
日本で得た銀でもって、商人たちは今度は中国へ行き、買い物をします。中国も日本の銀が良いのを知っていますから「ぜひ日本の銀と交換しましょう。前はこれだけでしたから、今度はこれだけにします」などと話が始まります。ところで中国では、翡翠が金よりも価値が高かったこともあり、あまり「金」は用いられておりませんでした。商人たちはそこで、日本の銀と金を交換しました。
スペインとポルトガルは儲けに儲けました。大航海時代にあれだけの植民地を世界中に持てたのは秘密があります。それは圧倒的な財力と巨大な船でした。日本の銀がその財源となったのです。
西鋭夫のフーヴァーレポート
黄金と日本(2021年3月下旬号)-2
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。