米国大使館人質事件
アメリカがイランを嫌う理由はどっさりあります。アメリカはこの40年もの間、イランに対しては「絶対復讐してやる」と思っているのです。ことの発端は1979年、カーター政権の時に遡ります。
イランの若者たちが騒ぎ出しました。イランでは皇帝を「シャー」と呼びますが、時の皇帝パフラヴィー朝モハンマド・レザー・パフラヴィーが自分に反対する若者や一部の過激なイスラム教徒たちを弾圧し始めたのです。火薬庫に火がついたように大暴動へと発展していきました。
そんな中で起きたのが、イラン米国大使館人質事件です。1,000人ぐらいの若者がテヘランにあった米国大使館へとなだれ込み、そこで52名のアメリカ人外交官を人質にしました。そして444日間、釈放しなかったのです。大使館に立て籠ったイラン人たちは、時々カメラの前にアメリカ人を連れ出してきて、大きな刀でもって大使館員たちを切るかのような行動をしておりました。アメリカでは実況中継でこれを流しておりましたから、もう真っ青な状態でした。
失策
当時のカーター政権は、弱腰外交を通り越して腰砕け外交の状態でした。あの姿は見ていて私まで恥ずかしかった。イランは本当にそれほど強いのだろうか。確かにイランは中東の大国であり、偉大なるペルシャ帝国でもありましたから、人口も多く、若い人も多い。しかしイランは、軍事的にも経済的にもアメリカに到底及びません。イスラエルにも及ばないレベルでしょう。
ただあの国は、子供たちに手を繋がせて地雷原を歩かせる国です。信じ難いことを実際にやってしまうところに、当時のアメリカは恐怖を感じたのかもしれません。
カーター大統領が何もしなかったわけではありません。しかしながら、やることなすことの多くが失敗でした。人質奪回のための特殊部隊を編成し、巨大なヘリコプターでイランに向かいましたが、砂まじりの強い突風のためヘリコプターはズタズタになり、多くのアメリカ兵が命を落としました。作戦は行動を起こす前に失敗したのです。
444日間
事件を起こした若者たちは、なぜ444日目に人質を解放したのか。
カーター大統領が選挙に負け、レーガン政権が誕生したその時に、人質は解放されました。1981年1月、レーガン氏が聖書に手を置いて「アメリカの国民を守ります」と誓った瞬間、まさにその数分後に人質が解放されたのです。
事件発生からレーガン政権が誕生するまでの間が444日間だったわけです。この事件は現在もなお、アメリカ人のイランに対する強い嫌悪感の根底にあります。
西鋭夫のフーヴァーレポート
2019年1月下旬号「日本独立への道」-5
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。