平沼騏一郎と国本社

by prideandhistory_admin December 1st, 2022

From: 岡崎 匡史
研究室より

平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう・1867〜1952年・法学博士)は、日本大学第2代総長、さらには大東文化大学(大東文化学院)の初代学長も務めた。

しかし、平沼は学究肌というよりも、政治家としてのイメージが浸透している。

岡山出身の平沼騏一郎は、東京帝国大学を首席で卒業。司法省に入る。約10年間、検事総長を務め、第2次山本権兵衛内閣のとき、司法大臣として入閣。

司法大臣を辞任してからは、国民精神の涵養を説く「国本社」という政治団体を創立。国本社は、神道の精神に重きを置き、国民精神を養う団体で保守派の論客が結集した。

平沼は、復古主義の思想の持ち主。もちろん、日本が進歩するには、西洋に学ぶ必要がある。しかし、それは西洋のご機嫌をとるためではない。実力をつけて、日本流でやるべきだと考えていた。国本社を政治基盤として、平沼は政治力を強めていく。

総理大臣就任


1939(昭和14)年1月、平沼は第35代内閣総理大臣に就任。
しかし、7ヶ月という短命内閣。首相を退陣したものの、政界への影響力を残す。

日本敗戦時の1945(昭和20)年には、枢密院議長に就いていた。枢密院とは、大日本帝国憲法のもとでは天皇の最高諮問機関。

枢密院議長として敗戦を迎えた平沼は、ポツダム宣言を「国体護持」を唯一の条件として、受諾を主張。

そのため、8月15日、憲兵の襲撃をうけて、自宅が焼き討ちにされてしまう。襲撃の直前、電話で危険を知らされた平沼は、命からがら難を逃れた。

東京裁判


GHQによる日本占領が始まると、平沼は「A級戦犯」に指定され逮捕状が出た。

しかし、老齢の平沼は自宅に蟄居を命ぜられる。このとき、彼はすでに77歳。翌昭和21年に、巣鴨プリズンに収監された。

平沼は被告人のなかで最年長。
長期の刑を科すことは、死刑を言い渡すと同じ。

「軽い刑罰を課すべきだ」という嘆願書まで提出された。

それでも、オーストラリア出身のウェッブ裁判長は、平沼騏一郎に「終身禁固刑」を言い渡す。平沼は、監獄のなかで生活を続けるが、歳をとっているので病気にかかる。治療のため病院に移された。

日本が独立を果たして間もない1952(昭和27)年8月22日、慶應義塾大学病院で亡くなる。享年86。1978(昭和53)年、靖国神社に合祀された。


ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・平沼騏一郎回顧録編纂委員会編『平沼騏一郎回顧録』(平沼騏一郎回顧録編纂委員会、1955年)

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