From: 岡崎 匡史
研究室より
第二次世界対戦の戦勝国アメリカは、1945年9月2日をVictory over Japan Day、略して「V-J Day」(対日戦勝記念日)と呼ぶ。
V-J Dayは、「アメリカ人が真珠湾攻撃を受けた屈辱と日本に対する復讐と懲罰の日として常に記憶に留めておくべき」という意味であった。
日本では1945年8月15日を終戦と捉えがちだ。しかし連合国は、日本が降伏文書に調印した1945年9月2日に世界大戦が終わったと見なしている。
ミズーリ号
1945(昭和20)年9月2日午前9時4分、日本帝国は、東京湾に停泊する巨大戦艦ミズーリ号(USS Missouri)艦上にて日本首席全権大使・重光葵(しげみつ まもる・1887〜1957年)が「降伏文書」に調印。
重光葵は、何千何百人という連合国将兵の厳しい視線を感じながら、大役をこなした。足が不自由で杖をついて歩く老いた彼の姿は、敗戦日本を象徴していた。
重光に続いて、最後まで徹底抗戦を主張していた参謀総長の梅津美治郎(うめづ よしじろう・1882〜1949年)が調印。梅津は大本営陸海軍部を代表することよりも「腹を切ったほうがよい」と拒み続けていたので、この任務を遂行させるために昭和天皇が直々に説得したほどだった。 当時の指導者層は、「降伏文書の調印に当ることは、公人としては破滅を意味し、軍人としては自殺を意味する」と考えていたからだ。
トルーマン vs. マッカーサー
日本側の2人が調印した後、マッカーサー元帥が連合国軍最高司令部を代表して署名。アメリカ合衆国を代表してサインをしたのは、かつての戦艦ミズーリ号艦長、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツ提督。続いて、中国、イギリス、ソ連、オーストリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順で署名をした。
すべての調印が終ったあと、マッカーサーは、「いまや世界に平和がよみがえり、神が永久にそれを守ることを諸君とともに祈りたい。式を終了する」と宣言。綿密に計算された勝利のドラマは、B29型機400機、艦載機1500機の大編隊がミズーリ号の上空を大音響とともに飛行して幕引きとなった。
しかし、アメリカ国民は、ミズーリ号でのマッカーサーの演説を聞くことができなかった。なぜなら、同時刻、トルーマン大統領がアメリカ国民に向かって「ラジオ演説」をしたからである。
トルーマンは、この大戦での「勝利は文明世界の生存を保障する」ものであると述べ、1945年9月2日を「V-J Day」(対日戦勝記念日)と命名しマッカーサーを牽制した。トルーマンは大統領として威厳を保ちたかった。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・U.S. Department of State. 2004. Occupation of Japan: Policy and Progress. Honolulu: University Press of the Pacific.
・加瀬俊一『加瀬俊一回想録 下巻』(山手書房、1986年)
・重光葵『昭和の動乱』(中公文庫、2001年)
・ マッカーサー『マッカーサー回想記』(朝日新聞社、1964年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。