From: 岡崎 匡史
研究室より
GHQによる日本の占領が開始されたとき、マッカーサー元帥は65歳。
マッカーサーの宗教観は、「キリスト教と東洋の宗教とは、一般に考えるほど違ったものではない。両者の間に衝突するものはほとんどなく、お互いに理解を深めあうことで得られるところが少なくないと思う」という信念を持っていた。
マッカーサーは、相互理解をすればお互い仲良くなれると信じ、楽観的であった。こうした考えは、マッカーサーの「第2の故郷」といわれているフィリピンでの良き経験が作用している。
米西戦争とマッキンリー大統領
1898年、アメリカ・スペインの間で「米西戦争」が勃発する。アメリカは、フィリピン、グアム、プエルトリコを手中に収める。フィリピンは「解放」されて米国の「植民地」となる。
このとき、第25代ウィリアム・マッキンリー大統領(William McKinley・任期1897〜1901)は、「自由な者による征服は救いなり」と説く。
自由、民権、宗教の自由、教育、家庭の恵みを受け、先々の子孫までフィリピンを解放し、フィリピン人を世界最高の文明の道へ導いたことについて米国に好意をもつような国となる日を待望したい。
当時、まだ青年のマッカーサーは、マッキンリー大統領の演説に「筆舌に尽くせないほどの深い感銘を受け」て、日本占領における「行動の指導的な基準」になったと言う。
3つのC
なぜ、マッキンリー大統領は「自由な者による征服は救いなり」という偏見に満ちた言葉を吐いたのか。
大航海時代が幕開けとなった16世紀以降、西洋の優位が決定的となった。当時、西洋列強による「植民地化」とは「キリスト教化」をも暗示していた。「宣教」には、「西洋が海外の領地を植民地化し、その住民を隷属」させるという大前提があった。
植民地主義の「3つのC」と言われる「キリスト教」(Christianity)、「商業」(Commerce)、「文明」(Civilization)が、大手を振って罷り通っていたのである。
フィリピンの解放から約半世紀後、マッカーサーは、「米国はフィリピンに、この新しい自由なアジアの範例を築き上げた。フィリピンにおいて米国は、東洋の民族と西洋の民族がともに尊敬と利益をわかち合いながら肩を並べて進んでゆけるという実例を示した。フィリピンでアメリカの主権がたどってきた道は、いま東洋の完全な信頼をうけている」と、フィリピンと同じ道を日本もたどると予測した。
マッカーサーは、彼の父であるアーサー(Arthur)が植民地総督者としてフィリピンを「解放」したように、日本で解放者にならんとした。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・マッカーサー『マッカーサー回想記』(朝日新聞社、1964年)
・デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換 』(新教出版社、2001年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。