From: 岡崎 匡史
研究室より
「日本精神と皇道研究所」の続きです。
日本大学第3代目総長・山岡萬之助(1876〜1968)は、なぜGHQから目をつけられてしまったのか。
日本の「国家建国」と、日本大学の「建学精神」を同一視していたからです。
1933(昭和8)年に就任した山岡総長は、就任式の挨拶で「我国家的使命ハ建国以来一貫スル所、皇道ニ基ク正義、仁愛、平和ヲ基調トスル建国精神ヲ徹底シテ之ヲ世界ニ光被セシムルコトデアリマス」「本大学ノ建学精神ハ我建国精神ニ順応シ之ト一致シテ居ルコトハ周知ノ事実デアリマス」と訓辞。
さらに翌年、山岡総長は、「わが日本大学は、日本国体の尊厳を崇重して、建国の大精神をし、皇道を内外に宣揚せんことを主旨」としていると発言。
ナチズム擁護
山岡総長の発言は、年々、拍車がかかっていく。
「日独伊三国同盟」が結ばれたのは、1940(昭和15)年9月。それよりも2年前の1938(昭和13)年、山岡総長は日本大学創立50年記念講演「民族と其の精神」において、ヒトラーを支持する演説を行う。
山岡総長は、ナチス・ドイツのヒトラー総督のチェコ分割要求はドイツ民族の政治的要求なので、「正義であり、正当であるから、達成するものである」「猶太人(ユダヤじん)を独逸(ドイツ)から排撃し、『ゲルマン民族の浄化』をはかる彼らの政策を支持している」と弁舌を振るった。
敗戦と日本大学
しかし、日本は敗戦を向かえる。戦禍で荒廃して先行きが見えない1945(昭和20)年9月、日本大学は戦時色・軍事主義を払拭するため、日本大学本部にある日本主義・皇道主義を鼓舞した研究施設である「皇道研究所」「皇道学院」「興亜研究所」を廃止。
さらに、日本大学校歌の歌詞にある「八紘一宇」という箇所を、「正義と自由」と改め、素早く時局に迎合した。
日本大学校歌(作詞:相馬 御風・作曲:山田 耕筰)「日に日に新たに 文化の華の さかゆく世界の 曠野の上に 朝日と輝く 国の名負いて 巍然と立ちたる 大学日本 正義と自由(筆者註、「八紘一宇」)の旗標のもとに 集まる学徒の 使命は重し いざ讃えん 大学日本 いざ歌わん われらが理想」
(註:制定時において歌詞は「正義と自由」だったが、1940(昭和15)年に「時局ニ鑑ミ適当ナラザルニ付」という理由で「八紘一宇」と改正されていた)
日本大学の対応は、同年12月15日、GHQの「神道指令」によって「大東亜戦争」や「八紘一宇」という軍国主義・超国家主義を類推させる言葉の使用が禁止される前だ。
しかし、GHQが戦前の日本大学の所行を見逃すはずはない。GHQは、国家主義的・国粋主義的人物として山岡総長を名指し、教育者として不適格として休職に追い込んだ。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・日本大学百年史編纂委員会編『日本大学百年史 第二巻』(日本大学、2000年)
・日本大学百年史編纂委員会編『日本大学百年史 第三巻』(日本大学、2002年)
・「日本大學總長山岡萬之助休職ノ件(昭和二十一年一月三十日聯合國軍最高司令官總司令部發六八〇八號(民間情報敎育部)終戰連絡中央事務局經由日本帝國政府宛覺書)」文部大臣官房文書課『終戰敎育事務處理提要 第二輯』(文泉堂出版、1980年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。