From: 岡崎 匡史
研究室より
日本は、地震大国です。
南海トラフによる地震が、いつ起きてもおかしくない。
南海トラフが原因と思われる地震は、1946(昭和21)年に起きた「昭和南海地震」(マグニチュード8.0)。その前は、1854(嘉永7)年に「安政南海地震」(M8.4)というように、大きな地震が周期的に起きている。
歴史をひも解くと、突然起こる地震が日本の命運を分け、政治の決定に影響を及ぼすこともあります。
幕末と地震
1853(嘉永6)年にペリーが来航してからというもの、ほぼ毎年のように日本列島は地震に襲われました。
1854(嘉永7)年12月23日、「安政東海地震」(南海トラフ巨大地震)が発生し、地震による津波(4〜6メートル)で下田港は大打撃を受ける。流出家屋841軒、半壊30軒、無事だった家は4軒しかなかった。
1856(安政3)年、八戸沖地震(M7.5)。
北海道から三陸海岸で津波発生。盛岡藩、八戸藩、仙台藩で流死者。
1857(安政4)年、芸予地震(M7.0)。
松山藩、今治藩で数人の死者。
1858(安政5)年、飛越地震(M7.1)。
山崩れが各地で起き、302名死者。
1858(安政5)年、信濃大町地震(M6.0)。
大洪水が起き、溺死者140名。
江戸幕府崩壊の前触れかのように、幕末は巨大地震の連続。元号を「嘉永」から「安政」に改元しても、国内政治は安定するどころか、荒れ狂ったのです。
下田港
静岡県の下田は、幕末日本の外交交渉の表舞台。
1854年3月3日、ペリーが浦賀で「日米和親条約」を締結させ、函館と下田が開港されることになった。そもそも、なぜ、下田港が選ばれたのか。
江戸幕府は、外国船を江戸湾(東京湾)に入れさせたくない。可能なかぎり、外国船を締め出したい。伊豆半島の下田は、山々に囲まれており、平坦な道が少ない土地柄。幕府は、下田であれば外国貿易を抑制することができる、と読んだ。
しかし、その下田が、津波で崩壊してしまった。江戸幕府は、すぐさま下田の復興にとりかかる。財政的にも支援する。津波に対する防波堤も建造した。2年ほどの復旧工事で、下田はある程度立て直すことができたが、下田の人口減少は否めず、不景気に陥る。復興バブルはつかの間だった。
1856(安政3)年7月には、初代駐日領事のタウンゼント・ハリスが下田に上陸。下田の「玉泉寺」(ぎょくせんじ)にアメリカの領事館を構えた。その間に「日米修好通商条約」が結ばれ、1859(安政6)年2月に神奈川(横浜)開港が決定。ハリスは下田を去り、神奈川港へ赴任し、下田港は閉鎖の運命を辿ったのです。
ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
・北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館、2006年)
この記事の著者
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。
岡崎匡史
日本大学大学院総合科学研究科博士課程修了。博士(学術)学位取得。西鋭夫に師事し、博士論文を書き上げ、著書『日本占領と宗教改革』は、大平正芳記念賞特別賞・国際文化表現学会学会賞・日本法政学会賞奨励賞を受賞。