許されざる国民
マッカーサーは、日本国民と軍国主義者たちを対立させれば、「民主主義対ファシズム」という国内浄化が起こるのではないかと期待した。
日本国民は、恰も突然登場した新興宗教のような「民主主義」へ限りなき望みをかけた。民主主義に熱心になればなるほど、敗戦の激痛と占領の屈辱を忘れ去ることができるかのように。
日本国民は、民主主義とアメリカを支持しなければ生きてゆけなかった。
なぜなら、マッカーサーは、「消極的黙認ニヨリ」国家を戦争に導き、敗北という悲惨な結果を齎した人々さえも追放すると言う。
全国民が懲罰の対象だ。
日本人の紐帯
マッカーサーの断罪の理由は、厳しかったが、的が外れていた。
民主主義の「魂」である「個人の良心」や「個人の自由」は、日本帝国では大きな役割を演じ得なかった。その必要もなかった。
「天皇の聖旨」「忠君」「国体」「大和魂」という全てを抱え込む概念が、天皇と国民(臣民)との間の絆であった。
「個人の良心」というものは、国家の福祉を犠牲にする危険な「利己主義」を意味するのでなければ存在し得なかった。そして、教育は、個人が国家と一心同体になるために使われた。
国家の繁栄は臣民の誇りであり、国家あっての個人の存在であった。国家の「永遠の栄光」は、臣民が持つべき永遠の夢となった。
アメリカ版民主主義
終戦直後の日本の社会状況は、アメリカ社会での個人・個性の尊重とは対照的なものであったが、マッカーサーは日本社会の中で「個人」を育めば、天皇大権は萎え凋み、やがてはアメリカ版民主主義が花を咲かせるだろうと思い付いたのは当然であった。
日本政府もそれを知り尽くしていたので、主権在民に抵抗し、明治憲法と教育勅語を救おうと足掻いたのだ。
だが、マッカーサーは「戦争犯罪人」の追及を続け、「日本民主化」が恰も「敗者」が受けなければならない「処罰」であるかのような印象を強くした。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。