局長批判
戦前の原形が残らないまでに日本教育を改革したCIEの軍人たちは、どのような人物だったのか。当時、『ジャパン・タイムズ』の編集長であった河合一雄は手厳しい評価をしている。
「局長は海兵隊予備軍の中佐で、小さな町の高校の校長をしていた男。彼の部下も似たり寄ったりの連中だった。(日本全土に配属されていた)地方軍政部の教育担当将校は、もっと若く、経験も貧弱な者たちであった。アメリカ軍人の教育担当者たちの理想主義や仕事への献身的な情熱は良い模範になったが、日本の教育者、特に大学の教授たちは自分の学識や経験をハナにかけ、アメリカの教育担当将校を密かに見下す態度をとっていた」
終戦後、初の文部大臣であった前田多門は、1956年(占領終結四年後)に「日本教育を担当したアメリカ人たちは、何の教育学の知識も経験も持っていなかった」と扱き下ろした。
名門スタンフォードからの使者
洞察力のあった河合が「小さな町の高校の校長」と見縊った男ニュージェント局長は、名門スタンフォード大学大学院を卒業していた。
その後、1937(昭和12)年から1941年3月まで、大阪商大と和歌山高商で英語、経済、地理と簿記を教えた。日本語もできた。それ故、開戦と同時に、海兵隊の対日諜報部員として活躍した。
日本側は、この男を甘く見すぎたのではなかろうか。敵を過小評価すると、惨めな結果が待っている。
河合と前田がこのような発言をしたのは、日本政府が「マッカーサーの行き過ぎ」を直そうとしていた時期であったことを忘れてはならない。
しかし、これほど「無知なアメリカ軍人たち」に改革された日本教育を、未だに変えようとしない、変える気もない、そんな日本には一体どのような評価を下すべきか。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。