真相
さらに状況を探求してみると、次のことがわかる。
⑴ マッカーサーは、松本委員会で進行していたことについて何も知らなかった、と主張しているが、彼はバーンズ国務長官に1945年10月から1946年3月にかけ、「私は大臣たちに民主主義の原則について教育するため、彼らと幾度も個人的に会った」と述べている。
⑵ 既に、1946年1月7日、アチソン顧問はマッカーサーに、日本政府(松本草案)が天皇大権を帝国憲法に規定されたままにしておくつもりだと警告している。マッカーサーにとって、これだけでも松本草案を拒絶する十分な理由となった。
⑶ 幣原が戦争放棄を自発的に提案したとすれば、彼は松本草案のことを考えていたに違いない。当時検討されていたのは同草案だけであり、幣原は、自分が指名した松本と緊密な協議をつづけていたからだ。
マッカーサーの独壇場
松本草案は、「陸海軍」の代わりに「軍隊」という言葉を含んでいた。さらに、天皇は宣戦と条約締結権をもっており、緊急事態以外は国会の同意を必要とすることになっていた(どの国でも、「緊急事態」の下で戦争を行なうのである)。
陸軍始観兵式で閲兵を行なう昭和天皇(1938年)
この草案を見たマッカーサーは怒り、失望し、ホイットニーに日本が憲法上、戦争できぬだけでなく自衛さえもできぬようにせよ、と命じた。
マッカーサーがホイットニーに書かせた草案では、「国権の発動たる戦争は放棄する......自衛のためでさえ......」となったのである。マッカーサー直筆のノートにもそう書いてある。
幣原は、1946年3月7日(マッカーサー草案と酷似した「内閣案」が公表された日)、AP記者に「GHQと内閣との審議中、日本側は戦争放棄条項に何の反対も表明しなかった」と語っている。日本側が提案したのなら、「GHQ側は反対しなかった」と言う。
吉田は、「それを提案したのはマッカーサー元帥であり......それに対し幣原男爵は熱意をもってそれに応じたという印象をもっている」と推測している。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。