扼殺された「誇り」
第二の特徴は、「戦争放棄」の第9条である。「特徴」ではない。
第9条は昭和憲法の礎石である。
第9条の上に「戦後日本」が作られた。
敗戦直後の虚脱状態にあった日本国民から、平和という甘い言葉を使い、「愛国心」と「誇り」を誘い出し、マッカーサーは素手で扼殺した。その死体が第9条だ。
マッカーサーの責任逃れ
マッカーサーは、自分にはその責任がないと断言し、釈明をする。
最初の釈明。
マッカーサーがトルーマン大統領に解任された3週間後、1951(昭和26)年5月5日、アメリカ議会の公聴会で、第9条は「幣原首相が新憲法の中に書き入れた」と断言した。
第2回目は、彼の『回顧録』の中で少々込み入った言い訳をする。
「(幣原首相は)1946年1月24日正午、私の司令部に来て、ペニシリンについて礼を言った。私は彼がどこか当惑げで躊躇しているのに気付いたので、言いたいことがあるなら率直に話すように勧めた。すると、彼は新憲法が最終決定する時には、いわゆる戦争放棄条項を含めるよう要求した。彼はまた、いかなる軍事機構も禁止するよう提案した」
『回顧録』の虚実
この会見が1月24日に行なわれ、松本案がマッカーサーに提出されたのが6日後の2月1日である。幣原が「新憲法」として心に抱いたのは松本草案である。松本草案の他には政府案がなかった。また、彼は松本案に賛同していた。
幣原が「新憲法が最終決定する時には」と言ったと、マッカーサーがわざわざ『回顧録』の中で特記したことで、自分が隠そうとしていた真実を無意識にさらけ出してしまっている。
幣原やマッカーサーがこの遅い段階まで(松本草案が出てくる6日前まで)、最も重大かつ理想的な条項(戦争放棄)を書き加えることを保留する理由もない。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。