台風関東直撃
1947年6月19日、アチソン政治顧問はトルーマンに、「我々が好むと好まざるとに拘らず、今の日本は、アメリカの経済的責任であります。この国が最小限、自立できるまで援助し続けることがアメリカの国益だと思います」と勧告した。
同年9月14日から15日にかけ、「カスリン台風」が東京、埼玉を襲う。死者・行方不明者1529人。農作物も大打撃を受ける。
トルーマン大統領は、「日本で餓死を防止するためには、食糧の供給が絶対に必要であることを強調する劇的な広報をアメリカ国内で行なう必要がある」と考えた。
1947年10月14日、陸軍省はマッカーサーに、「大統領は飢餓状態を示す写真を要求されておる。特に子供、女性、老人、パンを待つ行列、衰弱し切った状況を強調する写真である。本物の写真でなければならない。古い写真は使用してはならない」と打電した。
10月16日、GHQの公衆衛生福祉局は、マッカーサーに「飢餓状況を示す写真は1枚もありません」と報告してきた。なぜないのか。
「食糧輸入が続行される限り、起こりえないでしょう」
証拠写真を隠せ
次の日、マッカーサーは陸軍省に返答した。
「日本の飢餓状態は日本国内の食糧資源を最大限活用した結果、1947年末に は辛うじて回避された。アメリカからの最小限の食糧輸入も効果があった」「その 結果、餓死寸前の状態を示す写真は得られなかった」
しかし、日本への食糧輸入を続行するため、彼は陸軍省に次のような提案をした。
「(大統領の)広報活動では、餓死と社会騒乱はアメリカからの援助によって未然 に防止された、ということを理解させるべきである。飢餓状態は過去2カ月間、 なんとか避けられたものの、栄養失調は現在、日本国中に蔓延している」「もしア メリカから最小限の食糧輸入がなければ、飢餓状態はさらに悪化しよう」と威し 文句で締め括った。
マッカーサーは、日本の惨めな現状を示す証拠写真を提出したくなかった。自分の統治能力の「欠陥」を曝(さら)け出し、アメリカ国民に知られてしまうのではないかと恐れたのだ。
米国大統領になりたい
強敵日本帝国を破り、「軍国主義日本」を「平和を愛する民主主義日本」へ改善した「大成功」を持って本国へ凱旋し、大統領になるつもりだった。
事実、1948年と1952年の2度、共和党の大統領指名候補になろうとしたが失敗した。1948年と言えば、マッカーサーが東京で君臨している真っ最中の時だ。それでも大統領になろうとした。
マッカーサーは「ジャップ(日本人をとても軽蔑した語)がアメリカ国民の首に纒(まつわ)りつく信天翁(アホウドリ)にならないよう、日本経済の成長を望んでいる」とロック特使に言ったが、彼の「経済政策」は、日本経済を破壊し、アメリカから食糧を輸入し続けることであったため、結局ジャップを「信天翁」にしてしまった。
これで、日本国民を操るのが楽になった。
飢えている日本国民は、マッカーサーからの「餌」により、家畜のごとく飼い馴らされた。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。