不運の鞭・南海大地震
飢えの悲鳴に過ぎなかった「日本国民の暴徒騒乱」に対するマッカーサーの厳しい警告は、彼の政策を絶えず批判する共産主義者への嫌悪を表明したものであり、また、日本占領が規律正しいものであるという印象を世界に示したいという彼の強い願望をも反映していた。
しかし、空きっ腹の日本人に「社会的平静」を強要したことにより、「民主主義」は、腹一杯食えるお金持ちだけにしか関係ないものと見えたのではないだろうか。
深刻な経済状況は、共産主義者の扇動があろうとなかろうと、悪化していったのだ。
1945、46年と絶望的な食糧危機が続き、そのまま師走になり、翌年はさらに悲惨になるのではないかと恐れていた国民を、1946年12月21日、南海大地震が襲う。
4〜6メートルに達する津波が、静岡から9州に至る海岸線を走る。死者、1432名。家屋全壊、1万5640件。
労働組合「宣戦布告」
日本政府(吉田内閣)が麻痺したかのように茫然としている間、国民の不満は、日毎に募り、ついに全国の労働組合は、1947(昭和22)年2月1日にゼネストを行なうと宣言した。
ゼネスト(全国で全ての産業の「脈」を止めるストライキ)を黙って傍観するマッカーサーではない。彼は赤がかっている労働組合から「宣戦布告」されたと思ったのだ。
ゼネストの前日、1月31日午後2時30分、彼は「現在の貧しい衰弱した日本で、このような致命的な社会的武器を使用することは許さない」と断言した。
「この恐ろしいゼネストに関係しているものは日本国民の極少数に過ぎない。しかし、この少数の人間は、一握りの者たちが日本を戦争の惨禍に導いたために生 じたと同じような状態に日本国民を陥れることになるかもしれない」。
彼は「検閲された民主主義」のジレンマを察知していたので、「私は非常緊急対策として、今回、止むを得ず、かかる措置を取ったが、これまで労働者に与えられてきた行動の自由を抑制する考えはない」と付け加えた。
1歩退却2歩前進
同日、1月31日の夜、全官公庁共闘議長伊井弥四郎(いいやしろう)は、MPに連行され、午後9時11分、NHKのスタジオでゼネスト中止を放送させられた。泣きながら、「1歩退却2歩前進、労働者、農民万歳」と叫んだ。
マッカーサーは、日本の共産主義者に責任がある、と名指しはしなかったが、日本国民は彼の真意を見逃さなかった。
マッカーサーが「ストを行なう労働者の合法的権利」に土壇場で干渉したことは、日本国民に、「民主化」はアメリカの国益に沿ってのみ実行されるものという現実を見せつけた。この労働者の失望と怒りが、2カ月後の1947年4月の総選挙で、社会党内閣出現に大きく寄与した。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。