マッカーサーの我が奇跡
日本人の武器は、装飾用刀剣を含め、いち早く占領軍に没収されていた。現在、日本の名刀の殆(ほとん)どは、イギリスの大英博物館とアメリカの美術館にある。
「日本国民の武力の行使」を窺(うかが)わせるものは何一つなかった。
この異常な静けさは「奇跡以外の何ものでもない」とGHQは評価している。誰がこの奇跡を起こしたのか。「マッカーサー元帥が東洋人の心を見事に操ることによってこの奇跡を齎(もたら)した」とGHQは断言する。
『朝日新聞』は「天声人語」(1951年4月13日)で、GHQと同じ考えを明言した。
マッカーサーがトルーマン大統領の命令にたびたび背(そむ)いたため、解任され、本国へ召還されたのを憂えた『朝日新聞』は、次のようにマッカーサーを高く評価した。
「マ元帥は確かに優れた心理学者であった。磁力のように人を魅きつける哲人的性格は、日本人を協力者とすることに成功した。日本人が復興への熱意を振い起し生気を取りもどすについては、マ元帥に負うところ多大だった」
この讃美の1カ月後、マッカーサーは「日本人の知的水準は12歳の少年ぐらいだ」とアメリカ議会で発言した。マッカーサーは、「日本国民によって始められる改革」など必要としなかった。日本国民が介入してくると、彼の計算が狂う。
民主主義とは名ばかり
厚木上陸直後から、マッカーサーは、「狂気の軍国主義日本」国内で、反乱もゲリラ戦も起こさせず、法と秩序を維持することに成功した。
この成功が、彼を思い上がらせた。彼は自分のやり方に疑念をもたず、民主主義をあたかも柔らかな粘土であるかのように弄(もてあそ)び、日本国民が行なったかもしれない社会改革に伴う混乱よりも、自分の独裁統治による安定を選択した。
「法と秩序」を守るため、マッカーサーは、天皇、内閣、国会、そしてマスコミを駆使し、自分の「思い」や「夢」を政策化し、日本の法律にした。1つの政策が失敗しても、マッカーサーと日本国民は、閣僚や国会議員の入れ換えで手品のように事態を変えられると考えた。政策の非現実性などは問題にはならなかった。
「マッカーサーは正しい」。常に、である。
彼の純粋かつ誠実な行動は、民主主義と平和のためである、と受け取られた。しかし、彼の純粋さ故、彼の言行は独善的なものになり、いかなる反対も押し潰してしまった。
この記事の著者
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。
西 鋭夫
1941年大阪生まれ。関西学院大学文学部卒業後、ワシントン大学大学院に学ぶ。
同大学院で修士号と博士号取得(国際政治・教育学博士) J・ウォルター・トンプソン広告代理店に勤務後1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。それより現在まで、スタンフォード大学フーヴァー研究所教授。